台湾日本人物語 統治時代の真実(7)  日台・台高生「最後の宴」

 本年4月1日から連載がはじまった産経新聞文化部編集委員の喜多由浩(きた・よしひろ)氏による「台湾日本人物語 統治時代の真実」(隔週水曜日掲載)。台湾の日本統治時代の歴史を振り返るのに格好のテキストなので、本誌で紹介しようとしてなかなか機会がないまま、7月8日に8回目を迎えた。

 旧制台北高等学校の自由な雰囲気や日本人と台湾人の分け隔てない関係を描いたものに、川平朝清(かびら・ちょうせい)氏や言語学者で台湾独立建国運動創始者の故王育徳(おう・いくとく)氏などを取り上げた6月10日付の第6回「『自治・自由』の台北高校」と6月24日付の第7回「日台・台高生『最後の宴』」がある。

 第6回に続いて第7回でも王育徳氏の『昭和を生きた「台湾青年」』が引用され、日本人と台湾人の分け隔てない関係が「最後の宴」で象徴的に紹介されている。

 また、辜寛敏氏などが登場し、台北高等学校創立90年の2012年、かつて同校のシンボルだった「自由の鐘」が復元されたことが出てくる。出席していた李登輝元総統の名前は出てこないものの、李元総統も高等学校生に戻ったごとくとても喜んでいたというエピソードが伝わっている。

 下記に第7回の全文をご紹介するとともに、第1回からの掲載日と見出しをご紹介したい。

・第1回:4月01日「維新負け組」のリベンジ 後藤新平と新渡戸稲造・第2回:4月15日 抗日武装勢力との死闘 北白川宮能久親王・第3回:4月29日 欧米列強を模倣せず 後藤新平・第4回:5月13日 鴎外父子「医のバトン」 森鴎外と森於菟・第5回:5月27日 台北帝大、南洋研究の拠点 伊沢修二・第6回:6月10日 「自治・自由」の台北高校 川平朝清、王育徳・第7回:6月24日 日台・台高生「最後の宴」 伊藤圭典、辜寛敏・第8回:7月08日 「ぞうさん」詩人の台湾時代 まど・みちお

 なお、執筆者の喜多由浩・文化部編集委員は「歴史に消えた唱歌」(全14回 2011年4月3日〜7月3日)やその続編ともいうべき「歴史に消えたうた 唱歌、童謡の真実」(全25回 2019年4月3日〜2020年3月8日)でも知られる。

 このほど産経新聞出版から「歴史に消えた唱歌」と「歴史に消えたうた 唱歌、童謡の真実」を再構成し『消された唱歌の謎を解く』(6月23日刊)として出版している。高橋史朗(たかはし・しろう)麗澤大学大学院特任教授の書評を別途ご紹介したい。

 ちなみに、GHQの日本占領史研究や親学などで知られる教育専門家の印象が強い高橋史朗氏だが、台湾とも縁が深く、日台交流教育会副会長をつとめたことがある。

—————————————————————————————–台湾日本人物語 統治時代の真実(7)  日台・台高生「最後の宴」【産経新聞:2020年6月24日】https://special.sankei.com/a/international/article/20200624/0002.html

 1枚の写真が残されている。終戦後の昭和21年3月、日本人の引き揚げを前にして、元台北高校(旧制)七星(しちせい)寮の一室に日・台の同窓生らが集(つど)った「最後の宴(うたげ)」の記念写真だ。

 セルフタイマーで写真を撮ったのは台北高・四高(金沢)から京都大工学部へ進み、日本寮歌振興会事務局長を務めた伊藤圭典(けいすけ)(91)。写っている4人は同室の寮生らである。

 後ろの壁には《民国35年(1946年)3月5日 別離ノ宴》《嗚呼(ああ) 我(わ)が懐(なつか)しき友よ》。そして、台湾人同窓生が書いた《伊藤君イザサラバ!!》の文字が見える。「引き揚げ前に『いよいよお別れだ』と皆で記念に撮ったのです。野菜を切って入れているのは風呂場の脱衣かご、鉄兜(かぶと)が、かまど代わり。酒は寮にあった老酒(ラオチュウ)の四合瓶(びん)。皆で一緒に寮歌を歌いました」

 伊藤は、基隆中(旧制)から昭和20年春、台北高理科甲類(理・工系)へ合格した。ところが、入学と同時に、前回(10日付)書いた川平朝清(かびら・ちょうせい)(92)と同じく、警備召集で陸軍に入隊させられてしまい、半年間は学校に通えなかった。

 やっと戦争が終わり、20年9月に復学したが、10月には中国・国民党側に接収され、台北高は廃校。学校は、台湾省立台北高級中学と名称が変わる。この際、日本に関わる一部の授業は廃止されたが、教授陣は、ほぼ変わらず、日本人生徒も21年3月まで授業に出席できたという。

 伊藤は七星寮にとどまっていた。室長は、写真中央で酒瓶を持っている台湾人の黄丙丁(こう・へいてい)。川平と同じ1級上の理科乙類クラス(医学進学コース)の先輩だった。戦後、黄は台北帝大の「後身」となった台湾大学へ進み、中部の嘉義(かぎ)で開業、小児科医となる。

「(黄とは)戦後も長く手紙のやりとりをしていましたが、少し前に亡くなりました。私は、台北高の中で(日・台の)差別はなかったと思いますよ」

◆教授に救われた

 明治大教授などを務めた王育徳(台北高−東京帝大)は『「昭和」を生きた台湾青年』に台北高教師の思い出を書いている。《(台北)高等学校の先生がたは、おおらかで、ものわかりがよくて、リベラルであった…このころまで(※王は昭和17年卒)は長髪も許されたし、自由主義的な言動も許された(略)名物先生が何人もいた》

 万葉集研究で知られ、戦後、文化功労者になった犬養孝(たかし)(1907〜98年)は、昭和17年に台北高の国語科教授に就任。終戦前は文科クラスの担任だった。

 そのクラスで教え子だった竹内昭太郎(しょうたろう)(93)によれば、最後の校長となった下川履信(16年就任)が旧制五高(熊本)後輩の犬養を引っ張ったらしい。「犬養先生の授業は、万葉集の歌の朗詠ばかりでしたねぇ(苦笑)。(20年春には)40代を迎えていた犬養も生徒らと同じく、一兵卒として召集され、大変な苦労をされました」

 戦前、台湾唯一の貴族院議員になった辜顕栄(こ・けんえい)(1866〜1937年)を父に持つ、辜寛敏(こ・かんびん)も同じクラスにいた。

 平成24年に私が台北で行ったインタビューで、辜寛敏は、授業態度が良くなくて、落第になるピンチを犬養に救われた思い出を語っている。「犬養先生は『態度が悪いだけなら寮に入って人格を磨けばいい』という条件で進級を認めてくださった。寮に入ってよかったですよ。やはり高等学校の雰囲気は寮に入らないと分かりませんから」

◆密かに「卒業証書」

 終戦後、伊藤や竹内ら日本人生徒は日本への引き揚げと同時に「転校先」を探さねばならなかった。

 とりわけ、台北高高等科2年で終戦を迎えた竹内らは不安を抱いていた。戦時下で高等学校の修業年限はそれまでの3年→2年に短縮されていたため、それに従うならば、昭和21年3月で「卒業」を迎える。ただ、20年春以降の半年間は軍隊へ取られていた上、同年秋の段階で台北高校はすでに廃校になっていたのだ。

 竹内らは、校長の下川に「特例」で卒業を認めてくれるよう何度も直談判する。下川は「心配しなくていい」と言うだけで、はっきりしない。実は下川は、中国側には内密にして、卒業証書の印刷を手配していたのである。証書の裏には《但し昭和21年3月末日迄在学し所定の課程を履修し得たる場合…》と書き添えてあった。

 竹内はいう。「国民党軍が台湾へ進駐してくる前に印刷を依頼していたのですよ。終戦後は、新たに中国から先生が来たりしましたが、(校長からは)『しっかり勉強をやれ』とだけ言われていました」

 ただ、校長の計らいも、内地の旧制高校の年限が「3年」に戻されたため、結局は卒業扱いにはならず、3年生への編入を迫られることに。竹内は、松江高(島根)を経て一高(東京)へ。もとより1級下の伊藤や同学年の文科にいた元最高裁判事の園部逸夫(いつお)(91)はともに、四高(金沢)へ編入した。

 このとき、満州(現中国東北部)や朝鮮から引き揚げてきた人たちも同じ苦労を味わっている。引き揚げる時期が遅くなったために受け入れてくれる学校がなく、編入や進学を諦めた人も少なくなかった。

◆「ルーツ」を顕彰

 台北高校創立90年の2012年、かつて同校のシンボルだった「自由の鐘」が復元されている。

 高等科設置時(大正14年)の校長、三沢糾(ただす)がアメリカの農場から持ち帰った洋風の鐘で、授業の開始・修了時には「カランコロン」という心地よい音色を響かせていた。復元事業の中心になったのが、台湾側の同窓会会長を務めていた辜寛敏らである。

 校舎を受け継ぐ台湾師範大学は台北高校に関する資料や写真も引き継ぎ、大学内に、「台北高等学校資料室」がつくられた。

 統治者と被統治者が同じ意識を持つことは難しい。台北高への入学者数を見れば「差別」がなかったとは言えない。それでも、伊藤が撮った写真を見れば、そんなことも超越した「確かな絆(きずな)」が感じられてならない。

=敬称略(文化部編集委員 喜多由浩)

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