「いのちの水」引いた警官 瀧野平四郎  喜多 由浩(産経新聞文化部編集委員)

 群馬県には、いまでも台湾の人々から尊敬される偉人が多い。「台湾紅茶の父」の新井耕吉郎(あらい・こうきちろう)、「最後の台南市長」の羽鳥又男(はとり・またお)、「台湾風土病の撲滅」の羽鳥重郎(はとり・じゅうろう)、匪賊の凶刃に斃れた六士先生の一人の中島長吉(なかじま・ちょうきち)、「台湾図書館の父」「基隆の聖人」の石坂荘作(いしざか・そうさく)、「上毛かるた」を創作し「いともかしこし台湾神社」など「台湾いろはかるた」も作った須田清基(すだ・せいき)などだ。

 ここにまた一人、「水道の恩人」と慕われる瀧野平四郎(たきの・へいしろう)が加わる。今も雲林県の農田に灌漑用水を供給し続けている地下水道を敷設し、地元の人々から「命の水を引いてくれた恩人」と尊敬を受けている。

 瀧野の事績を見出したのは、本会理事で前群馬県支部長の山本厚秀氏。山本氏は2018年の機関誌『日台共栄』9月号(第42号)に「台湾で尊敬される『水道の恩人』瀧野平四郎」と題して寄稿していただいている。山本氏は瀧野を見出すまでの経緯をつづるとともに、現地調査に出掛けたことなどを執筆していただいた。瀧野の略歴を下記のように紹介している。

<瀧野は明治17年7月に今の高崎市箕郷町で分家の3男として生を享けた。実家のスケッチがある。立派な門構えである。東京正則英語学校に学び、のち警視庁に勤めた。明治41年(1908年)7月渡台し、警察官として斗六支庁(今の斗六市)警務課巡査を振り出しに、現在の台南市・嘉義県・雲林県の各地で勤務した。赴任先では、住民の生活基盤である街路整備に真っ先に取り組んでいる。 昭和11年(1936年)に辞職し、同年に新巷庄(今の新港郷)庄長に就任、接収まで職を全うした。暴れ川で名高い北港渓の大護岸工事を完成するなど、名庄長の誉れが高かった。>

 産経新聞文化部編集委員の喜多由浩氏は、昨年7月8日から産経新聞に「台湾日本人物語 統治時代の真実」を連載し好評を博している。中でも、亡くなられた李登輝元総統を偲び、喜多氏自身「台湾の総統をつとめた大政治家を語るのにこのコラムはふさわしくなかったかもしれない。ただ、どうしても李から聞いた台北高校のことを書いておきたかった」として書いた「李登輝氏に旧制高校生の矜持」(2020年10月14日)は白眉の評高く、李登輝元総統の身近に仕えてきた関係者をも感心させた。

 このほど、瀧野平四郎の事績について山本厚秀氏にインタビューし、「『いのちの水』引いた警官 瀧野平四郎」をこの連載に加えた。下記に全文を紹介するとともに、山本氏が機関誌『日台共栄』第42号に寄稿した一文も併せてご紹介したい。 ◆山本厚秀「台湾で尊敬される『水道の恩人』瀧野平四郎」(機関誌『日台共栄』42号) http://www.ritouki.jp/wp-content/uploads/2018/09/42-3.pdf

—————————————————————————————–「いのちの水」引いた警官 瀧野平四郎  喜多由浩(産経新聞文化部編集委員)【産経新聞「台湾日本人物語 統治時代の真実」(22):2020年1月20日】

 日本統治時代の台湾で、上下水道整備の取り組みは早かった。ペスト、コレラなどの疫病が蔓延(まんえん)し、衛生問題改善の根本的な手段として喫緊の課題だったからである。当時の住民の衛生意識は低く「防疫」という観念自体がない。上水は河川水や井戸水を使い、汚水はそのまま川へ流していたから、疫病の発生・蔓延の原因となってしまう。

 内務省衛生局長、後藤新平(後に台湾総督府民政長官)は統治開始翌年の明治29(1896)年に、英スコットランド出身の“お雇い外国人”で帝国大学工科大学で教鞭(きょうべん)をとったバルトンと弟子の浜野弥四郎(やしろう)を台湾へ派遣。2人は基隆、台北、台中などの各都市で現地調査を進め、30年代半ば以降から上下水道が急ピッチで整備されてゆく。

 ただし、あくまでこれは都市部を中心とした話。山間部などの僻地(へきち)ではそうもいかない。昔ながらの河川水や井戸水に頼り、汚染された水の使用を余儀なくされ、慢性的な生活用水、農業用水不足に悩む村が多かったのである。

◆酷かった水事情

 大正期、台湾中部の小さな村に赴任した、若い警察官がいた。

 瀧野平四郎(たきの・へいしろう)(1884〜1950年)。高位の幹部でも、著名な人物でもない。警視庁から明治41年、24歳のとき、台湾の巡査募集試験に合格。警部補として嘉義(かぎ)や彰化(しょうか)の街から山間部へ分け入った「●頭★(かんとうせき)(現・雲林(うんりん)県古坑(ここう)郷)」の村の駐在になったのは大正7年、34歳のときである。

 赴任早々、瀧野は、あまりに酷(ひど)い、村の水事情に驚く。瀧野の業績が最初に紹介された『台湾芸術』昭和19年9月号(河原功氏提供)の「いのちの水の恩人」を引きたい。

《この部落には全然水がない…旱魃(かんばつ)期ともなれば部落の南側を流れている川は全く涸(か)れ、所々の水たまりは青苔(こけ)の湧いた汚いものとなる。これを村人は明礬(みょうばん)などを入れて飲料や炊事に使っていた。…瀧野は考えた。これはどうしても部落民に生命(いのち)の水を與(あた)えなければならない…》

 瀧野は、簡易水道を引くことを決意。1週間以上、周辺を探し、専門技術者の意見を聞いた上で、数キロ離れた小川(大湖口渓)を水源地として白羽の矢を立てた。そこに竪(たて)井戸を設置して伏流水を取り込み、貯水、浄水池を経て鉄管などで導水する計画である。

 地元官庁の嘉義庁と交渉し、事業費は約3万6千円(現価で約7200万円)で予算が組まれることとなった。農民ら総出で工事に取り掛かったのは大正9年のことである。

◆腹を切る覚悟で

 ところが、約2カ月間で工事の完成にめどがついたところへ、大暴風が見舞い、一夜にして施設は崩壊してしまう。村人からは「これでは再開しても到底、水は出まい」とあきらめの声も聞かれ始め、瀧野は水道建設にかける決意を改めて強い言葉で表明する。瀧野の手記『思い出の記』(昭和24年記)を引こう。

《「水は必ず通る確信がある。もし水が出ない場合は私は諸君の面前で腹をかっさばいて死んでお詫(わ)びをする」と言い切った…一片の私心も功名心もあって始めた事(こと)ではない。この事は彼らも知っていたし、私の決意は到底覆すことが出来(でき)ないと知った…》

 大正10年4月、水道は完成する。瀧野の手記には、水が出たときの喜びがあふれんばかりに綴(つづ)られていた。《私は堪(たま)り兼ねて「水が出た、水が出た」と叫んだ。私は泣けて泣けて仕方がなかった。部落民も(警察の補助をする)保甲(ほこう)役員も感激して目頭を熱くした者が多かった…私は腹を切らんで済んだのであった》

 ?頭?の約400戸約1000人の村人は、道路十数カ所に設置された公共栓や、各戸の水道からきれいな水を利用できるようになった。手記には、感謝した住民有志らによって、瀧野の功績をたたえる「功労碑」が建てられたことが書かれている。

◆現在も続く給水

 話は「平成」に飛ぶ。平成27年、群馬県高崎市在住の山本厚秀(あつひで)(75)=台湾悠遊倶楽部(ゆうゆうくらぶ)主宰=はキリスト教伝道師、須田清基(せいき)が書いた「群馬県人の遺跡をさぐる」という一文で瀧野を知り、関係者を探して資料や写真を集め始める。同年11月には現地を訪問。水源地には竪井戸5基が残っており、現在も灌漑(かんがい)用水として約370ヘクタールの農地に給水していることが分かった。

 ところが、肝心の瀧野のことや水道の由来を知る者がいない。日本統治時代に生まれた村の古老らと話をするうちに、だんだんと事実関係が浮かび上がり、決め手となったのは、山本が見つけた「功労碑」に刻まれた碑文の写真だった。そこに、当時の庄(村)長の名前があったのである。

 山本は言う。「写真がなければダメだったでしょうね。戦後70年以上が経(た)って、瀧野の功績はほとんど忘れ去られていましたから」。1年後の再訪を約束して現地を後にした。

 ここからが「台湾らしい」話になる。

 瀧野が先頭に立って造り上げた水道は「?頭?[土川](しゅう)」と名付けられ、国立屏東(へいとう)科技大学の教授によって、その文化的、歴史的な価値について調査が進められていた。報告書によれば、伏流水を取り込む方式は台湾最古の可能性が高いという。

 28年12月、約束通りに現地を再訪した山本は地元住民らの大歓迎を受ける。荒れていた水源地周辺は、きれいに整備され、記念公園に生まれ変わっていた。雲林農田水利会会長名による「飲水思源 憶?頭?[土川]」とした新たな記念碑が建立され、瀧野の功績がしっかりと刻み込まれていた。

 韓国で同じことをやろうとすれば、最大の悪罵である“親日派”のレッテルを貼られ、たちまちつるし上げられてしまうだろう。

 瀧野は戦後、日本へ引き揚げ、昭和25年に66歳で亡くなる。手記には、こうも書いてあった。《(水道)工事は一時的であるが、幸福と利便とは永久的なものである》

=敬称略(編集委員 喜多由浩)=次回は2月3日掲載予定

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