曽田長宗 感染症と闘い続けた医師  喜多 由浩(産経新聞文化部編集委員)

【産経新聞「台湾日本人物語 統治時代の真実(19):2020年12月9日」

 新型コロナウイルスの感染が中国・武漢で確認されてから約1年たった今も収まらない。それどころか、冬を迎えた北半球では拡大する一方だ。人類の歴史は感染症との闘いであり、その押さえ込みがいかに困難か、ということを改めて思い知らされた。

 その中で、台湾の“優等生ぶり”は際立っている。累計の感染者数は、700人未満、死者は10人に届かない(11月末現在)。それも、欧米のようなロックダウン(都市封鎖)はナシ。徹底した水際対策や、高度な衛生環境と意識によってウイルスのシャットアウトに成功している…。

 失礼ながら、125年前に、日本が統治を開始した明治28(1895)年の台湾は現在と“真逆の状況”にあった。衛生環境・意識は極めて低く、ペスト、コレラ、チフス、赤痢などが度々大流行した。また、マラリアなどの熱帯病によって命を落とす人も後を絶たなかったのである。

 台湾へ渡った日本人の医師や官僚は、まだ十分に実態が解明されていなかったこれらの感染症と、特効薬もワクチンもない“徒手空拳”の状況で、自らの感染リスクも承知で闘わねばならなかった。

◆ペスト致死率8割

 後に台湾医学界の中心人物となる堀内次雄は日本統治開始時(28年)、近衛師団軍医だった。『台湾医学五十年』に当時の惨状が書かれている。《台北にはコレラの流行があり、陸軍の伝染病院はコレラと赤痢の患者でいっぱいになっていて、毎日屍体(したい)を火葬場に送り出した…》《コレラ、マラリア、赤痢、脚気(かっけ)などの患者はますます増える状態…堀内自身も遂(つい)に熱病にかかった。おそらくマラリアであったのだろう》

 統治2年目の29年には、ペストの流行が始まる。中国大陸の厦門(アモイ)からジャンク船で、台湾の台南近郊の港・安平へ、次いで、台北近郊の淡水から入り、たちまち感染が広がった。当時は、ペストに関する知識がそれほどなく、《はだしで歩かないこと、生水を飲まぬこと(略)予防指令として甚だ幼稚なものであった》(『同』から)。ペストの感染者数は大正6年までに約3万人、うち死者は約2万4千人と、致死率は実に約8割に上った。

 31年に、台湾総督府民政局長(後に民政長官)として渡台した後藤新平は医師であり内務省の衛生局長を務めた専門家。日清戦争復員兵の防疫策(水際対策)に成功した手腕などを買われての起用であった。

 後藤は、台湾各地に設置した病院を、総督府直轄にして施設の改善を実施。32年には台湾人子弟を対象とした医学校(後の台北医専)を創設して、医師の養成を行う。公医制度をつくって僻地(へきち)にも派遣した。さらに基隆(キールン)、台北などの都市から各地で上・下水道の整備を進めてゆく。これらの政策は日本人が古来持っていた「高い衛生意識を定着させること」に他ならなかったのであろう。

◆米で最新研究修め

 後藤らが統治初期の衛生問題に尽力したとすれば、曽田長宗(そだ・たけむね)は“幕引き”期に苦闘した日本人のひとりだといえる。

 曽田は、台北帝大医学部助教授時代の昭和13年から渡米、世界でも最先端の公衆衛生学研究で知られた米ジョンズ・ホプキンズ大に留学し、公衆衛生学修士号(MPH)を取得した。同大は現在も公衆衛生学で世界トップクラスの研究機関であり、今も新型コロナウイルスの感染者数を独自に集計・発表している。

 帰国後、曽田は台北帝大医学部の衛生学の教授に就任。同時に、同大熱帯医学研究所員、台湾総督府の技師を兼務する。米で修めた、疫学を基盤とした最新の公衆衛生学の知識を生かし、行政と研究の両面から感染症対策の最前線に立つこととなった。

 当時、そうしたキャリアを持った日本人の医学者は少なく、曽田がいた台北帝大は大学の中でも先んじていたという。

 終戦後は中国・国民党政権によって留用され、同様の業務を続けた。四男の史郎(84)によれば、「(国民党に)支配されながらも知識を持った人はおらず、結局は日本人が引き続き行うしかなかった。父は現場へ赴き、自身も感染症に罹(かか)りながら対策に奔走したそうです」。

◆病人引き揚げ貫徹

 曽田が任された終戦後の最も困難な仕事は、日本人の病人の引き揚げだろう。曽田はその仕事をやり遂げたが、引き揚げ船の中で自分の息子を病気で亡くすという痛恨事を味わう。

 妻の一枝は『長宗と共(とも)に歩んだ道』にこう綴(つづ)っている。《私どもは昭和五年に台湾に渡った。それから終戦後一年の昭和二十一年(に引き揚げる)までの十六年間、彼(か)の地(ち)で七人の男児に恵まれる》《まったく予期もしなかった悲しみは引揚げの途中にあった。それは当時三歳であった最愛の六男禄郎(ろくろう)を…沖縄沖にさしかかるころに、疫痢状態の急病で亡くしてしまったことであった…》

 一枝の一文によれば、曽田は、橘丸(たちばなまる)(約1700トン)という、引き揚げ病院船の責任者として多忙を極めていた。対象は、台湾在住の日本人で、動くことのできなかった伝染病患者などの重症者。曽田は自分の息子以外には、老衰で亡くなった老婦人を除いて死者を出さなかった。

 同船していた四男の史郎は、「船は、病人でいっぱいで、担架で運ばれるような重症者が多かった。弟の禄郎は食べ物にあたったらしく、ある朝、父から弟が死んだと聞かされた。母は弟を抱いて泣いていました」と語る。

 史郎の記憶では、台北の自宅にはいつも、曽田の教え子である台北帝大の台湾人学生が遊びにきていた。日本人が礎(いしずえ)を築いた台湾の近代医学は、戦後、台北帝大→台湾大となり、公衆衛生の意識や対策も引き継がれてゆく。

=敬称略(編集委員 喜多由浩)

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曽田長宗(そだ・たけむね)明治35(1902)年、新潟県出身。旧制一高から東京帝大医学部卒。昭和5年、台湾総督府嘱託、台北帝大医学部教授(衛生学)、総督府衛生課長などを歴任。21年、引き揚げ。戦後は、厚生省(当時)医務局長、公衆衛生院長。WHO(世界保健機関)総会議長も務めた。昭和59年、82歳で死去。

※この記事はメルマガ「日台共栄」のバックナンバーです。


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