社寺を支えた阿里山の巨木  喜多 由浩(産経新聞文化部編集委員)

 かつて台湾の檜は、橿原神宮の神門と外拝殿、明治神宮の鳥居、東大寺大仏殿の垂木、靖國神社の神門など日本を代表する寺社仏閣で使われてきた。

 産経新聞文化部編集委員の喜多由浩(きた・よしひろ)氏は同紙に連載している「台湾日本人物語 統治時代の真実」の17回において、世界遺産の薬師寺の金堂や西塔(さいとう)の心柱にも使われていることを紹介している。

 喜多氏は、台湾における檜の伐採が後藤新平によって手掛けられ、その後藤が開発の責任者に任命した林学博士で東京帝大教授だった河合[金市]太郎(かわい・したろう)にも言及、その事績を伝えている。

 河合は「阿里山開発の父」と称えられ、66歳で亡くなってから2年後の昭和8年(1933年)、台湾・慈雲寺(旧阿里山寺 嘉義県阿里山遊楽区内)の境内に「琴山河合博士旌功碑」が建立された。琴山(きんざん)は河合の号、旌功(せいこう)は功績を顕彰する意で、哲学者の西田幾多郎と中国文学・文化研究者の鈴木虎雄の撰文になる。嘉義県文化観光局が「琴山河合博士旌功碑」の写真を掲げ、日本語で説明しているので下記に紹介したい。

 四半世紀前に出版された『台湾と日本・交流秘話』(展転社、1996年刊)では「阿里山開発の父・河合[金市]太郎」としてかなり詳しく紹介していたが、近年、台湾関係の書物でも河合[金市]太郎の名前を目にすることはめったにない。日本統治時代の歴史を振り返るためにも、喜多氏の紹介は、日本と台湾の交流の原点を思い出させてくれる、まさに「統治時代の真実」にふさわしい着眼点と言って過言ではない。

◆嘉義県文化観光局:県定古跡・琴山河合博士旌功碑 https://www.tbocc.gov.tw/SightLib/Sight_Detail.aspx?id=714ffac2-52d7-e411-85dc-e4115b13f301&lang=jp

—————————————————————————————–社寺を支えた阿里山の巨木  喜多 由浩(産経新聞文化部編集委員)【産経新聞「台湾日本人物語 統治時代の真実(17)」:2020年11月11日】https://special.sankei.com/a/column/article/20201111/0001.html

 世界遺産「薬師寺」(奈良市)。昭和の時代に再建された金堂(こんどう)(昭和51年落慶)や西塔(さいとう)(56年同)の建材には、台湾のヒノキの巨木が使われている。西塔の中心を貫く心柱(しんばしら)は樹齢800年から1500年前後の古木4本を継いでつくられた、という。

 棟梁(とうりょう)を務めた西岡常一(つねかず)は『蘇る(よみがえ)薬師寺西塔』の対談でこう語っている。《(心柱は)やっぱり樹齢ですわ。樹齢が千五百年以上のもんやないと心柱には向かんということです…》

 同寺によれば、管主として再建の陣頭指揮をとった高田好胤(こういん)(1924〜98年)は、できうるならば国産の材木を使いたかったというが、条件に見合う巨木を日本国内で調達することは難しかった。

 日本統治時代に台湾・阿里山(ありさん)中のタイワンヒノキからヒノキチオールを発見した野副鐵男(のぞえてつお)の評伝『ヒノキチオール物語』を見てみたい。《天然檜(ひのき)で有名な木曽檜には、もはや寺社仏閣に使えるような長大材がない。あっても高価すぎて利用できない…反面(はんめん)、台湾ではまだ巨木が残されており、値段も比較的安価であったことから…タイワンヒノキやベニヒが利用されるようになった…》

 西岡も台湾まで足を運びヒノキを買い付ける。当時台湾でも伐採の制限が始まっていたが、西塔再建決定以前の昭和49年の段階で先を見越して用材を確保していた。結局、西塔用材の約85%までを台湾産のヒノキが占めることになる。

◆防蟻優れ長大幹

 台湾産ヒノキ材の利用は日本統治時代から行われてきた。木造の明神(みょうじん)鳥居として日本最大を誇る「明治神宮」(東京都渋谷区)の大鳥居(第二鳥居・高さ12メートル、幅17・1メートル、柱の直径1・2メートル)は100年前の創建時(大正9年)も、再建時(昭和50年)にも台湾産の巨木が使われている。

 大正時代の創建時は第二鳥居をはじめ、8つの鳥居すべてに台湾材が使われた。『明治神宮造営誌』(昭和5年)には、《…台湾総督府の進献にして、其最も長大なるものは長さ五十五尺、直径六尺六寸、樹齢一千二百八十四年に達し…新高山(にいたかやま)の西腹より伐採せしと云ふ》とある。

 一方、昭和11年台湾総督府発行の『台湾事情』は、《明治神宮の大華表(大鳥居)の両柱は一は樹齢一千九百五歳、他は一千九三歳》(「阿里山の伐木事業」から)と若干違うが、樹齢千年を超える巨木であったことは間違いない。

 同書はさらに、《…鬱蒼(うっそう)たる千古の大森林…最も価値あるものは扁柏(へんぱく)(タイワンヒノキ)と紅檜(べにひ)…いずれも蟻害(ぎがい)に耐へ、長大木多く…老大木では推定年齢三千年にも達し…古来扁柏の老幹を以て聞(きこ)え来つた木曽地方でも、今日は最早(もはや)斯(かか)る長大幹を求むることは出来(でき)ず、橿原神宮、桃山御陵(ごりょう)、明治神宮等(とう)の御(ご)用材中の重要材は、之(これ)を阿里山に求めらるる…》とした。

 台湾産のヒノキ材は、内地で最高級とされた木曽ヒノキと比べて、色沢などの品質面では、やや劣るものの、長大さ、無節、シロアリの害への耐性などの面で勝るところがあった。

 薬師寺再建の棟梁、西岡の言葉に、「千年生きた木は千年持つ」がある。台湾産のヒノキ材は戦前・戦後を通じて、日本の社寺の多くの復興・再建を支えることになった。

◆後藤新平の慧眼(けいがん)

 台湾で伐木事業を目的とした、本格的な森林開発が始まったのは、日本統治開始間もないころだ。阿里山、八仙山、太平山(地図参照)が3大事業地とされたが、開発着手は、阿里山が最も早い。

 北回帰線付近の海抜1000〜2800メートル前後の大森林帯には、ほとんど手付かずの扁柏や紅檜の原生林が残っていた。総督府は山中に跋扈(ばっこ)していた抗日武装勢力に悩まされながら明治32(1899)年から本格的な調査を始める。

 総督府民政長官の後藤新平(1857〜1929年)は、阿里山の森林開発の担い手として、日本初の林学博士、河合●太郎(したろう)(1865〜1931年)に白羽の矢を立てる。

 帝国大学農科大学(現・東京大学農学部)の林学科を出て、明治32年、欧州へ留学した河合は、外遊中の後藤と現地で出会い、36年、後藤の依頼で台湾へ出張している。以来、43年まで出張は5回に及び、同年5月には、東京帝大教授との兼任で台湾総督府阿里山作業所技師になった。

 後藤自ら、河合や、鉄道事業を担うこととなる長谷川謹介(1855〜1921年)ら三十数人と調査に乗り込んだ(37年)こともあった。《伯(後藤)が熱心に主張されていたものは阿里山の森林伐採であった。これは嘉義からほとんど四三マイル(約70キロ)の山奥で、海抜八千五百尺(約2600メートル)まで上がっておるという大森林である。これを鉄道によって開発しようという…》(『正伝 後藤新平』から)

 河合の功績は、欧米の先端技術を導入した伐採、運搬の機械化、さらには、輸送手段として阿里山森林鉄道(嘉義−阿里山)の建設を進言し、苦難の末に実現させたことであろう。

 《(河合)先生は明治四十三年には米国へ出張し米国式の集材機を輸入することに成功…我国で集材機が森林開発に使用されたのはこれが最初である。伐採したヒノキ、ベニヒ、タイワンスギ等の大材はその架空式鉄索集材機によって集材され、又特殊の構造になるシュー(シェイ)式機関車によって運材し、昭和十一年に至るまで二十余年間に亘り実に百余万立方メートルの伐採搬出をなした…》(『林業先人伝』杉浦庸一「林学界に遺された業績」から)

 阿里山開発の父とよばれた河合の功績をたたえて死後、阿里山に旌功(せいこう)碑が建てられた。そこには、河合が伐採だけでなく、継続して林業経営ができるように、その後の植林指導に取り組んだ業績が記されている。

=敬称略(編集委員 喜多由浩)=次回は25日掲載予定

●=金へんに市

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