行啓に随行 最強の「ぽっぽや」 喜多 由浩(産経新聞文化部編集委員)

行啓に随行 最強の「ぽっぽや」 台湾日本人物語 統治時代の真実(25) 喜多由浩(文化部編集委員)【産経新聞:2021年3月3日】https://special.sankei.com/a/international/article/20210303/0002.html

 大正12(1923)年4月、摂政宮(皇太子裕仁(ひろひと)親王)が軍艦「金剛」に乗って台湾を訪問(台湾行啓(ぎょうけい))された。後の昭和天皇である。当時の台湾総督(第8代)は初の文官出身である田(でん)健治郎。日本による統治は安定期に入り、「内台一体」のスローガンの下、融和政策が進められた。

 台湾総督府にとって、行啓は10年越しの悲願である。明治45年、皇太子時代の大正天皇のご訪問が一旦、内定したが、明治天皇が崩御されたことで中止になっていたからだ。

 当時、台湾・朝鮮の両総督府は張り合うことが多かったらしい。帝国大学創設で朝鮮に先んじられた台湾総督府幹部が悔しがったエピソードは有名だが、行啓をめぐっても台湾側が朝鮮総督府の動向を気にしていた様子がうかがえる。結局、「治安の良さ」が台湾の決め手となった。

 摂政宮は時に21歳。12日間にわたって基隆から台北、台中、台南、高雄などを回り、各役所、軍の部隊、研究機関、製糖会社などをご訪問。全島がお祭りムードに沸き立ち、台北では当時の人口(約17万人)の半数以上の約10万人がお迎えに出たという。

 『台湾行啓記録』に台北師範学校と附属(ふぞく)小学校を視察された記述がある。師範学校は、統治開始から間もない明治29年に国語学校として開設され、台湾人児童が通う公学校(小学校)の教員も多数送り出している。摂政宮は台湾語の授業などをご覧になった。

 附属小は台湾随一の名門小学校。前身の国語学校附属小時代につくった校歌を、ご訪問日(4月18日)に合わせて「行啓」を盛り込んだ新校歌に切り替える力の入れようだ。作詞は同校主事(校長)、作曲は巨匠・山田耕筰(こうさく)である。

 ご出発の際には、台北市内の小学校5、6年生児童約2500人が《校庭ニ列ヲ成シテ、奉迎(ほうげい)歌(『皇太子殿下奉迎の歌』)ヲ奉唱ス》。摂政宮は台中、台南など他の土地でも、多くの学校を訪問された。

◆貴賓車に「出番」

 島内の移動のために、貴賓車付きの特別列車が用意された。8両編成で貴賓車は2両。紫色の車体には、菊のご紋と日の丸の小旗が取り付けられている。

 摂政宮が乗られた車両は豪華なソファが置かれ、画家の川端玉章(ぎょくしょう)の手による蒔絵(まきえ)やステンドグラスなどで飾られた。台湾の暑さをしのぐため、天井にファン(扇風機)がついている。貴賓車も明治45年の台湾行啓内定時に新調されたもので、やっと行啓での出番が回ってきたというわけだ。

 行啓中、特別列車には台湾総督府鉄道部長の新元鹿之助(にいもと・しかのすけ)が陪乗した。新元は在台30年に近く、日本統治時代の鉄道建設の多くに関わり、頂点まで上りつめた。台湾最強の「ぽっぽや(鉄道員)」である。

 台湾に到着された摂政宮を基隆駅で先導する新元の写真が残っていた。新元の孫、久(ひさし)(89)は生前の祖父からその時の様子を聞いている。「陛下(摂政宮)を先導したときは、後ろを見ることができず、陛下の足音を頼りに歩を進めた。『とても緊張した』と話していました」

 大正5年に、総督府から「宮殿下奉迎委員会評議員」(その後、摂政宮殿下奉迎準備事務運輸部長など)に任命され、行啓の準備を進めてきた新元にとってはハイライトとも言うべき瞬間だったろう。

 嘉義駅では、阿里山(ありさん)鉄道(嘉義−阿里山中)の説明を新元が行っている。タイワンヒノキなどの巨木を運搬する目的で敷かれた山岳鉄道は急峻(きゅうしゅん)な奥地での難工事の末、行啓の約5年前に全線が開通していた。

◆鉄路には汗と魂

 明治30年、台湾総督府技師となった新元が、工務課長、監督課長などを経て台湾の鉄道トップの鉄道部長に就任したのは大正8年のことだ。技官出身者としては“台湾鉄道の父”と呼ばれた長谷川謹介以来2人目である。

 もっとも、鉄道部長ポストは、総督府ナンバー2の民政長官(後に総務長官)の兼務が多く、長谷川が明治41年に内地へ戻った後は実質上、新元が鉄道部を率いたと言っていい。

 同年に島の西側を貫く縦貫鉄道(基隆−後の高雄)が全線開通。その後も、先の阿里山鉄道や、開発が遅れていた東側の宜蘭(ぎらん)線、台東線、縦貫鉄道のバイパス線となった海岸線(通称・海線)…とレールを拡(ひろ)げて行く。何かとカネを出し渋る、内地の帝国議会や総督府の財政当局とも闘いながら、建設工事の陣頭指揮を執る日々が続いた。

 北部の八堵(はっと)から東岸の中心都市・宜蘭を通って蘇澳(すおう)に至る宜蘭線は、大正13年に全通している。ルートには山岳地帯が横たわり難工事の連続だった。とりわけ台湾最長の2166メートルに及ぶトンネル「草嶺(そうれい)隧道(ずいどう)」の工事には約3年を要し、多くの死傷者を出す。現在はサイクリングロードとなっている隧道の北側には、新元が揮毫(きごう)した「制天険」の扁額(へんがく)が残されている。当時の苦闘がしのばれるようだ。

 孫の久は言う。「現場視察をしたときの写真を見たら、祖父は泥だらけのわらじ姿だった。道なき道を歩き、測量から始めたと聞いています。台湾の鉄路には祖父の汗と魂が染みついていると思いますね」

 新元は『縦貫鉄道の今昔』の中で、鉄道線の建設について「国家の大計」に鑑み、「経済の大旨(たいし)」に沿うことの重要性を説いている。台湾の鉄道が旅客・貨物の両方で発展してゆく可能性を挙げ、《前途大(おおい)に有望と謂(い)わざるべからず成》と結んでいた。

 新元は台湾行啓の翌年の大正13年12月、健康上の理由で職を辞し、内地へ戻った。台湾鉄道建設の功績で正三位に叙され、旭日重光章を受けている。

 新元が建設に携わった多くの鉄道線はもちろん、行啓で使われた貴賓車、鉄道部の元庁舎などは現在も台湾に残されている。

=敬称略(編集委員 喜多由浩)=次回は17日掲載予定

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【用語解説】新元鹿之助(にいもと・しかのすけ)明治3(1870)年、現在の鹿児島市出身。第一高等中学校から帝国大学(現東京大学)土木工学科卒。30年、渡台し、台湾総督府鉄道部長を務めた。昭和24年、78歳で死去。

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