最古の小学校に誇り 「台湾日本人物語 統治時代の真実」(29) 喜多 由浩(産経新聞編集委員)

 戦後、芝山公園と改称された台北市郊外の芝山巌(しざんがん)に設けられた芝山巌学堂は台湾近代教育の発祥の地として名高い。1895年7月16日からこの学堂で日本語教育が始まっている。

 翌1896年1月1日に起こったのが芝山巌事件で、6人の日本人教師が土匪に殺害されて犠牲となった。この六士先生を祀る芝山巌神社が1930年に創建され、芝山巌は台湾教育の聖地として尊崇されるようになる。

 芝山巌学堂の後身が士林国民小学校で、初代校長を芝山巌学堂開設者で総督府初代学務部長の伊沢修二(いさわ・しゅうじ)とし、今年で創立126年を迎える。

 1995年1月1日、台北市士林国民小学校の校友会有志が六士先生のお墓を日本式のお墓に建て直し、それがいまに続いている。同年6月1日の士林小学校百年祭には、六士先生の一人、楫取道明(かとり・みちあき)を祖父とする本会の故小田村四郎会長らも参列している。

 産経新聞に「台湾日本人物語 統治時代の真実」を連載している喜多由浩・編集委員は29回目の連載で士林国民小学校を取り上げて紹介している。本会理事で群馬県支部長を務めた台湾悠遊倶楽部主宰者の山本厚秀(やまもと・あつひで)氏が士林国民小学校などを訪れたときの感懐を紹介している。下記に紹介したい。

 山本氏は、六士先生の一人である群馬県出身の中島長吉(なかじま・ちょうきち)について貴重な文献を発掘するなど独自に研究を進めている。

 ちなみに、六士先生は事件から2年後の1898年、秋の例大祭を期して靖國神社に祀られている。本会は芝山巌事件から120年となる平成28年(2016年)6月、子孫の方々などにご参集いただき靖國神社において「六士先生・慰霊顕彰の集い」を開催している。

—————————————————————————————–「台湾日本人物語 統治時代の真実」(29)最古の小学校に誇り喜多由浩(文化部編集委員)【産経新聞:2021年4月28日】https://special.sankei.com/a/column/article/20210428/0002.html

 今から26年前の平成7(1995)年6月1日付産経新聞夕刊(東京本社発行版)に、小沢昇台北支局長(当時)電で、《「芝山巌(しざんがん)・学堂」きょう記念大会》《台北市士林(しりん)国民小学校「開校百周年記念祝賀大会」》の記事が掲載されている。その記事から100年前、台湾の割譲を盛り込んだ日清戦争の講和条約が締結されたことを記念した行事だった。

 近代教育制度整備の取り組みは、日本の台湾統治開始(明治28=1895年6月17日)直後から始まっていた。台湾総督府の初代学務部長に就任した伊沢(いさわ)修二(1851〜1917年)は、台北郊外の芝山巌に、台湾人に国語(日本語)を教える芝山巌学堂を開校。士林小は、その「後身」とされている。

 統治開始約半年後の明治29年元旦に、土匪(どひ)(土地の武装勢力)の襲撃で教師(学部部員)6人(いわゆる「六士先生」)らが惨殺され(芝山巌事件)たこと、戦後、国民党によって破壊された墓所が「百年」を機に士林小OBらによって再整備されたことは、前回(14日付)書いた。

 小沢電によれば、《台北市士林国民小学校の卒業生有志は、今年(※1995年)一月、数年前に(芝山巌に戦後、建てられた)恵済宮住職が哀れんで作った六士先生の墓を建て直した》《六月一日の士林小学校の百年祭には、日本からも五十人ほどが出席した》。そして、《日台の交流がさらに拡大、波及することを願わずにはいられない》と結んでいる。

 士林小には、こうした日台の思いが間違いなく受け継がれているようだ。

 同小のHPには、ルーツが明治28年開校の芝山巌学堂にあり、120年以上の歴史を誇る、台湾初の官立小学校であることが記されている。同校は、翌29年に国語学校附属学校となり、31年には、八芝蘭(はっしらん)公学校に改称。戦後、何度かの校名変更の後に士林小となり、現在に至っている。

 芝山巌事件と六士先生について調べている台湾悠遊倶楽部(ゆうゆうくらぶ)を主宰する山本厚秀(あつひで)(75)は数年前、同小を訪問し、校内に日本統治時代の記念物などが置かれていることに感じ入ったという。同校百年の記念誌には「創校者」として、伊沢の名前と写真を掲載。校内には八芝蘭公学校の石柱が展示されていた。校舎の一部は八芝蘭公学校時代の建物を移築したという。

 山本は言う。「校長先生は、台湾最古の学校であることの誇りを語っておられた。(六士先生の墓所は)OBの方が定期的な清掃奉仕をされておられるそう。それがごく自然に受け入れているようでした」

◆漢字を活用せよ

 芝山巌学堂は台湾近代教育の起点である。

 明治29年に発布された台湾総督府直轄諸学校官制によって、そこから国語学校と国語伝習所が発足。国語伝習所はその後、公学校(台湾人が通う小学校)となり、国語学校は(台北)師範学校となって教員養成の役割を担う。

 これらの学校は日本人が別言語の外国人に対して、日本語を教え、なおかつ、日本語の教師を養成する、という初めての組織的試みであった。多大な困難を伴ったであろう事業はどのように行われたのか。

 学務部長の伊沢は、日台の共通理解のツールである「漢字」「漢文」に注目した。漢字で示した言葉を台湾語の「音」に変換してゆくのである。芝山巌事件の影響もあって治安への懸念も伝わるなかで伊沢は、内地(日本)の新聞に教師募集の広告を出し、日本語教授法などのテキスト作りにも取り組む。国語教育の研究会も設けられた。

 ただし、当初は国語伝習所の生徒集めにも苦労する。当時台湾では儒教教育を行う寺子屋風の「書房」が一般的だった。

 国語伝習所は、15〜30歳の甲科、8〜15歳の乙科に分け、妻帯者も多い甲科には、給付金制度が設けられたが、制度のない乙科には生徒がなかなか集まらない。抗日の機運も強く、海のものとも山のものともわからない日本語を学びたい者は少なく、勧誘のために書房や各家庭を回らねばならなかったという。

 29年に国語学校の初代校長に就任した町田則文(のりふみ)(1856〜1929年)が書房を視察した様子が 『町田則文先生伝』(昭和9年)に載っている。《書房の教師…年齢35、6歳。生徒33人。小は6、7歳より大は20歳位に至る。四書五経を初とし…》

 だが、書房と公学校の児童数は次第に逆転してゆく。昭和13年には公学校約50万人超に対し、書房はわずか約千人だった。

◆旅費・食費を支給

 国語学校も内地の師範学校と同様、基本的に学費はかからない(一部課程は除く)。さらに、生徒には、入学時の旅費や食費・手当のほか、被服、治療費までが支給された。

 『台湾総督府国語学校一覧』(大正6〜7年度版)によれば、「旅費」は東京からの場合、40円(現価で約8万円)。「食費」は1日当たり27銭(同約550円)、「手当」は同15銭(同約300円)。支給「被服」の一覧もある。正帽▽夏服▽冬服▽靴▽靴下▽外套(がいとう)▽ズボン下…=いずれも公学校師範部甲科生徒=と、いうから至れり尽くせりである。

 生徒は日本人84対し、台湾人761人と圧倒的に多い。卒業生は一定期間、教員として勤務することを義務付けられた。今度は彼らが、台湾の近代教育を担ったのである。

 劣悪な治安、衛生環境に加えて、設備も教科書もない厳しい条件下で近代教育整備に取り組んだ先人たちの苦労は察してあまりある。意見対立もあった。

 国語学校の初代校長、町田は、学務部長の伊沢と意見の相違があり、辞表を出したことがあった(その後、慰留されて撤回)という。ところが、今度は伊沢が予算問題などをめぐって、総督府ナンバー2の民政局長、水野遵(たかし)(後に貴族院議員)と対立、渡台約2年で去ってしまう。

 国語学校からは、後に台湾各地に設立される旧制中学や実業学校も誕生する。戦後の後身は、国立台北教育大学となった。同大のHPにはもちろん、120年を超える起点としての国語学校が記されている。

=敬称略(編集委員 喜多由浩)=次回は5月12日掲載予定

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