4年前のことになります。2018年10月20日、神奈川県の大和市や座間市にまたがる海軍の航空機工場「高座海軍工廠(こうざかいぐんこうしょう)」で戦闘機の製造に従事した台湾の元少年工の来日75周年を記念する歓迎大会が大和市内で開催されました。歓迎大会後は、台湾少年工をたたえる顕彰碑の除幕式も座間市内で行われました。
台湾少年工たち約8,400人が来日したのは、大東亜戦争末期の昭和18年(1943年)から19年にかけて。
2003年(平成15年)10月20日に行われた来日60周年歓迎大会のときは、作家の阿川弘之氏は日本李登輝友の会会長として、拓殖大学総長の小田村四郎氏も日本李登輝友の会副会長として参加しています。
阿川会長は当時、『文藝春秋』に連載していた巻頭随筆「葭(よし)の髄から」に「心の祖国」と題し、座間市の台湾少年工顕彰碑にも刻まれている、台湾少年工出身で台湾歌壇同人だった洪坤山氏の「北に対(む)き年の始めの祈りなり心の祖国に栄えあれかし」という和歌を紹介し、次のように書いています。
<「苦しきことのみ多かりき」の日々だつたのではないか。それなのに、契約違反だ謝罪しろ、自分たちの青春を滅茶滅茶にされた、慰謝料よこせ、そんな声なぞちつとも聞えて来ず、ただ、工廠時代の「我が師の恩」を思うて「仰げば尊し」が歌ひたいとは、何と謙虚な、心根やさしき人たちだらう。>
4年前の来日75周年記念大会のときには渡辺利夫会長も参加し、下記のような祝辞を寄せていました。
<ご高齢にもかかわらず、わざわざ台湾の地から、ここ神奈川県大和市にご参集くださいました台湾高座会の皆様、本当にありがとうございます。私どもは両手を上げて皆様の来日を歓迎いたします。(中略)
今回のこの「台湾高座会留日七五周年歓迎大会」を企画し、ついに実現させたのは、石川公弘さんであります。私が台湾高座会について初めて知ったのは、石川さんが書かれた『二つの祖国を生きた台湾少年工』によってであります。台湾少年工のことなどもう忘れ去られてしまいそうな時期に出版された、この石川さんのご本の功績にはまことに大きなものがあります。>
本会理事でもある石川公弘(いしかわ・きみひろ)氏は高座日台交流の会会長をつとめ、事務局長の橋本理吉氏や幹事の岩本武夫氏らとともに、李雪峰氏が会長の台湾高座会との交流を長年にわたって続けてきています。
石川氏の大きな功績の一つは、渡辺会長が紹介しているように単行本として『二つの祖国を生きた台湾少年工』を出版したことです。
下記に、台湾少年工の事績を取り上げた、産経新聞の喜多由浩記者が連載する「台湾日本人物語 統治時代の真実」をご紹介しますが、喜多記者が今回紹介している石川氏のご尊父の石川明雄氏のことも『二つの祖国を生きた台湾少年工』に載っています。
それにしても、毎回毎回、教えられることが多い喜多記者の連載も今回で48回となるそうで、石川公弘氏は「短い中で、台湾少年工のことをこれだけ的確に書かれているのを読んだのは初めて。台湾でもすごく評判がいいですよ。文才があるんですね」と絶賛しつつ驚いていました。
ちなみに、台湾少年工は空襲などで亡くなられた方々も60人ほどいます。台湾少年工は海軍軍属という身分で来日しましたので、亡くなられた方は戦歿された軍人・軍属として靖國神社に祀られています。喜多記者は「用語解説」で「身分は海軍軍属で、給与も支払われた」と紹介していて、本当に目配りの行き届いた記事です。
—————————————————————————————–日本を今も忘れぬ「台湾少年工」喜多 由浩(産経新聞編集委員)
【産経新聞「台湾日本人物語 統治時代の真実」(48):2022年1月19日】https://www.sankei.com/article/20220119-QR6JKWATANPXNNWSUY77AJLSOQ/?208280
韓国で相次ぐ、いわゆる「徴用工」訴訟の理不尽な判決を聞くたびに、ウンザリしている日本人は多いだろう。なぜこの国(韓国)は、国同士の約束や取り決めを守らないのか…と。
万が一、韓国人(元徴用工)に補償する必要があるのならば韓国政府が行うべき問題である。日本と韓国は昭和40(1965)年の日韓請求権協定によって、これらの問題は解決済みであることで合意しているのだから。
日本は当時の国力からすれば重い負担である巨額のカネを支払い、韓国はその資金を使って?漢江(ハンガン)の奇跡?と呼ばれた飛躍的な経済発展を成し遂げることができたのではなかったか。そして、日本統治時代の鉱工業施設を?居抜き?で受け継いだがゆえに終戦後、経済で一歩リードした北朝鮮を韓国は1970年代になって、ようやく追い抜くことができたのである。
◆選ばれし者の誇り
冒頭のようなニュースを耳にするたび、台湾の少年工のことを書きたくなる。昭和18年以降、台湾から日本へやってきて神奈川県の旧「高座海軍工廠(こうざかいぐんこうしょう)」から「零戦(ゼロせん)」「紫電改(しでんかかい)」「雷電(らいでん)」といった戦闘機をつくる全国の製造工場などに派遣された約8400人の少年たちのことだ。彼らは戦後、77年たった現在も、日本で働いた時代を誇り、懐かしみ、日本の関係者らと交流を続けている。
日本統治下の朝鮮の「徴用工」とは制度も背景も違うではないか、という向きもあるかもしれない。
だが、戦時下という非常時に、同じ国(日本)の人間として、厳しい環境下で「銃後」を支えるべく懸命に働いたという点では少しも変わりがない。
台湾少年工が厳しい環境下できつい労働に耐え抜く原動力となったひとつに「選ばれし者」という誇りと自負心とがあった。当時、「学びながら技術を習得でき、給料も貰(もら)える」という触れ込みだった少年工への希望者は殺到が予想されたため、学校段階で「事前選考」が行われた。主な条件は、国語(日本語)能力・頑健な身体・修身の成績・親の許可の4つ。
19年4月、すでに戦局が悪化した危険な状況にもかかわらず、「鴨緑丸」で日本へやって来た蘇振坤(95)は「募集を知って、どうしても日本へ行きたくなった。合格を聞いたときはうれしくてたまらなかった」と懐かしむ。
少年工らは、厳しい戦時下、飛行機の生産ラインから日本の熟練工が次々と徴兵されていく中で、見事にそれを補った。その事実も彼らの誇りである。
◆「高い評価」を守れ
戦局の悪化とともに当初、台湾少年工に示された学業との両立などの条件は必ずしも十分に果たされなかった。空襲による犠牲者も少なくない。南国・台湾育ちの彼らにとって、日本の冬の寒さが何よりこたえたという少年工もいる。
少年工への民族的な「いじめ」がなかったわけではないし、終戦直後には、管理者がいなくなった混乱の中で、それまでの鬱憤を晴らすかのような悪行が繰り返されたことがあったのも、また事実である。
だが、少年工らは「これまでの高い評価を台無しにしてはならない」という日本人舎監の説得に応じ、「台湾省民自治会」という組織を立ち上げ、自ら秩序の回復に取り組む。
工廠内の管理や生活を整え、国や県と交渉して食料などを調達しただけでなく、帰国船の手配まで行い、順次、台湾へ戻ることができた。後に台湾総統となる李登輝も彼らが手配した船に便乗して帰国している。少年工が日本側から受け取った退職手当は1人1000円。終戦後の急激なインフレ下であっても「大変なおカネだった」と元少年工は振り返っている。
◆親子2代にわたり
少年工を説得した日本人舎監の名は、石川明雄(平成元年、94歳で死去)という。昭和17年、国民(小)学校の校長から、少年工が生活する寄宿舎の舎監に転じ、彼らと深い縁(えにし)を築いていくことになる。
そして、石川に説得され、自治組織を立ち上げるリーダー役となったのが、寮長を務めていた李雪峰(96)だ。李はかつて、民族的ないじめを受けた日本人工員を殴ったことがあったが、舎監の石川は、日本人工員に「非」があったことを認めて、李を寮長にした人物である。
李は、当時を振り返ってこう話す。「石川舎監は切々と訴えられた。『われわれにはもう何の権限もない。キミたち自身で(秩序回復を)やるしかないんだ』と。温厚で、思いやりがある方でした」。1987年、元少年工による各地の同窓組織を統合する形で「台湾高座会」が創設された。李は会長に選ばれ、現在もその職にある。
石川家と台湾の元少年工は不思議な縁で、その後もつながれてゆく。
平成4(1992)年5月のことだ。その前日に、神奈川県の大和市市議会議長に就任したばかりの石川公弘(きみひろ)(87)は、たまたま不在だった市長の「代役」として、助役とともに、台湾からやってきた元少年工の訪問団と面会することになった。公弘は舎監をしていた明雄の息子。当時、国民学校生だった。
訪問団団長の「戦時中、大和の上草柳にあった寄宿舎に住んでいた」という話に驚いた公弘が「実は私も…」と明かすと大騒ぎ。「あなたのランドセル姿を覚えている」という人もおり、公弘も少年工らと親しく触れあい、アメや干しバナナをもらった約半世紀前の記憶がよみがえってきた。
公弘は同年11月、台湾・彰化で開催された第5回台湾高座会の全国大会に招待される。会議は全て日本語で行われ、会長の李雪峰は「日本は心の祖国、大和は第2の故郷である。来年はぜひ訪日したい」とあいさつ。この話は翌年、約1400人の訪日という驚くべき結果となって実現した。
公弘は「本当に偶然(の出会い)でした。何かに導かれたとしか言いようがありません」と語り、その後、日本側の関係者でつくる「高座日台交流の会」事務局長に就任、台湾高座会との交流事業を担って、今日に至っている。
コロナ禍で中断した日台の交流再開を待ちわびた関係者によって今年秋には、80 周年の記念行事が台湾で行われるという。=敬称略(編集委員 喜多由浩)
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【用語解説】台湾少年工戦時下、日本内地の労働力不足を補うべく、台湾から国民(小)学校高等科〜中学校(旧制)卒業者を対象に募集。昭和18年から19年まで計約8400人が選抜され、海を渡った。身分は海軍軍属で、給与も支払われた。
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