この10月20日、神奈川県座間市の丹沢山系をはるかに仰ぐ芹沢公園の一隅に「台湾少年工顕彰碑」が建立、除幕された。碑には3首の和歌が刻まれ、その第2首は元台湾少年工の故人、洪坤山氏の歌、
北に対(む)き年の初めの祈りなり 心の祖国に栄えあれかし
である。
台湾少年工といっても、ほとんどの日本人には意味不明であろうが、戦前期の半世紀にわたり日本の統治下におかれてきた台湾について、現在の日本人に語り継がれてしかるべき一つの哀史が少年工の物語の中にはある。
◆8400人が日本に渡った
昭和17年6月のミッドウェー海戦において日本は主力空母と搭載機の全てを喪失、戦況は米軍優位に転じた。19年7月にはサイパン島が占領され、以降、ここを基地とする米軍の本格的な日本本土攻撃が始まった。これに応じて日本は米軍機を迎撃する航空機製造を加速せざるを得なくなった。しかし、アジア全域に戦線を拡大していた日本は兵員の不足に悩まされ、航空機増産のために労働力を追加動員することは困難だった。
ここで着目されたのが、日本の統治下で日本語による教育を受けて育った台湾の少年たちである。台湾総督府を経由し多くの少年工が海軍工廠技手養成所要員として募集された。15歳前後の少年たちが厳しい選抜試験に挑んで合格、神奈川県高座郡(現在の大和市、座間市など)に設置された高座海軍工廠にやってきた。
徴用では全くない。募集であった。その条件は、旧制の国民学校尋常科を経て高等科に進みこれを卒業した者であれば工業学校卒業の資格を、中学校卒業者であれば高等工業学校卒業の資格を与え、将来は航空機技師になる道が開かれるというものだった。選抜された向学心の強い壮健な少年たちがここに集(つど)った。その数は、第1陣として18年5月に1800人、19年5月に第7陣2千人が到着するまで、総計8400人に及んだ。
◆過酷な労働環境で名機を生産
高座での実地研修の後、高座を含め全国で7カ所、当時の日本で最大規模の航空機製造を担った群馬県太田の中島飛行機、名古屋の三菱重工業などで「零戦」「雷電」「紫電改」の生産に携わった。台湾少年工の存在なくして、記憶を今に留めるこれら名機の活躍はなかったのであろう。
少年たちの労働環境は過酷であった。温かい台湾で生まれ育った彼らには冬の寒さが耐え難い。ヒビやアカギレの手は痛々しく、ノミやシラミに就寝を妨げられ、敗戦近い食糧難の時期、食べ盛りの少年たちは空腹を抱えての勤労であった。航空機の製造現場は米軍の本土攻撃の照準となり、19年12月には、三菱重工業名古屋製作所が徹底的な焼夷(しょうい)弾投下により壊滅して25人の少年工が死亡した。敗戦の直前、高座工廠が爆撃を受け空中爆雷により6人が死亡、犠牲となった少年工の総数は全国で52人と記録される。
各地に派遣された少年工が高座海軍工廠に帰ってきた。だが敗戦により日本海軍は解体され、高座工廠も閉鎖されて少年たちは居場所を失ってしまった。そのうえ、彼らは日本国籍から中華民国籍への変更を余儀なくされ、いわゆる「第三国人」として滞在せざるを得なくなった。憤懣(ふんまん)は募る。しかし、少年工のリーダーは「台湾省民自治会」を結成して外務省や神奈川県庁の担当部局と折衝、わずかながらも退職金を手にして21年初以降、順次、台湾に帰還することができた。
◆顕彰碑に刻まれた永遠の友誼
台湾で彼らを待っていたのは、今ひとたびの苦境であった。国民党による圧政である。日本時代の文物はことごとくが毀損(きそん)され、帰国した少年工が日本に赴いて航空機製造に関わっていたことなど口にすることさえはばかられた。国民党支配に抗する台湾人の反乱、2万8千人の無告の台湾の民が殺戮(さつりく)された1947年の二・二八事件を経て、その後、戒厳令が38年にわたり敷かれた。この間、少年工は自らの青少年時代の記憶を胸の底に秘め、居住まいの悪い思いに悩まされつづけた。
台湾人の民主化要求に抗(あらが)えず、ついに戒厳令が解かれたのが1987年。ようやくにして少年工は「第二の祖国」のことを語り始め、この熱い思いに志ある日本人が応えて台湾高座会が結成され、平成5年の「留日(日本留学)50周年」を機に大和市への「里帰り」が実現した。
台湾少年工顕彰碑は留日75周年を期して建てられ、90歳を前後するかつての少年工22人とその家族、日本人関係者が参列して執り行われた。碑はかつての高座海軍工廠の跡地、米軍による爆撃から身を守るために少年工が造成した地下壕の辺りを眼下にする場所に位置する。
台湾少年工の秘史を記録に留め、台湾高座会と大和市との友誼のために尽力してきた石川公弘氏の歌も碑に刻まれている。
八千の台湾少年雷電を 造りし歴史永遠に留めん
(わたなべ としお)
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渡辺利夫 [わたなべ・としお] 昭和14年(1939年)、山梨県甲府市生まれ。同45年、慶應義塾大学経済学部を経て同大学院博士課程満期取得。経済学博士(同55年)。その後、筑波大学教授、東京工業大学教授、拓殖大学教授を歴任して同大学長、総長に就任。同27年12月、同大総長を退任し学事顧問に就任。同28年3月、日本李登輝友の会会長に就任。公益財団法人山梨総合研究所理事長、国家基本問題研究所理事、公益財団法人オイスカ会長。第27回正論大賞受賞。主な著書に『成長のアジア停滞のアジア』(吉野作造賞)『開発経済学』(大平正芳記念賞)『西太平洋の時代』(アジア・太平洋賞大賞)『神経症の時代─わが内なる森田正馬』(開高健賞正賞)『新脱亜論』『アジアを救った近代日本史講義』『国家覚醒―身捨つるほどの祖国はありや』『放哉と山頭火─死を生きる』『士魂 福澤諭吉の真実』『決定版・脱亜論─今こそ明治維新のリアリズムに学べ』『死生観の時代─超高齢化社会をどう生きるか』など多数。