台湾に「台湾川柳会」が発足したのは李登輝総統時代の1994年7月。
今年は30年という節目の年を迎え、去る3月3日に「台湾川柳会30周年記念大会」が台北市内で開かれました。
日本からも、東葛川柳会代表で全日本川柳協会副理事長の江畑哲男(えばた・てつお)氏ら40名を超える関係者がお祝いに駆けつけたそうです。
日本李登輝友の会理事でもある江畑哲男氏には3月30日に開催した「台湾セミナー」で「ココまで来た日台の川柳を通じた文化交流」と題し、「台湾川柳会30周年記念大会」の模様を多くの関係写真とともに詳しくお話しいただきました。
当日は、台湾から台湾川柳会の杜青春会長も参加され、ユーモアたっぷりのスピーチをしていただき大いに盛り上がりました。
川柳界には、大阪に「番傘(ばんがさ)川柳本社」という全国組織で創立110年を誇る老舗の吟社があり、川柳誌『番傘』を月刊で発行しています。
この7月号(7月1日発行)に、江畑哲男氏が「台湾川柳会30周年記念句会とその後の活動」を寄稿され、そのコピーをいただきました。
日本で台湾川柳会について知る機会はほとんどありませんが、江畑氏は台湾で川柳会が開かれている意義や台湾川柳会の特色や現況などを詳述されていました。
これはぜひ台湾関係者にも知っていただきたいことと思い、転載したい旨をご連絡したところ、有難いことに原文をお送りいただきました。
下記に全文をご紹介します。
なお、転載に当たり、漢数字を算用数字に改めたことをお断りします。
◆番傘川柳本社ホームページ http://bangasa-senryu.la.coocan.jp/index.html
台湾川柳会30周年記念句会とその後の活動江畑 哲男(東葛川柳会代表、一般社団法人 全日本川柳協会副理事長)
「台湾川柳会30周年記念句会はいかがでしたか? 様子を聞かせて下さい」、そんな質問が小生のところに寄せられている。
中には、「『番傘』にはもうお書きにならないのですか?」と尋ねてきた方もおられた。
有り難いことである。
そう、ちょうど今から10年前の『番傘』誌(2014年4月号)に、小生は「台湾川柳会20周年記念句会」を寄稿していたのだった。
当時の編集部は、「新刊紹介コーナー」に20周年記念出版の『近くて近い台湾と日本─日台交流川柳句集』(江畑哲男・台湾川柳会編、新葉館出版)を丁寧に取り上げてくれてもいた。
そんな経緯もあって、遅まきながら30周年記念句会の報告をさせていただくことにする。
併せて、台湾に於けるその後の活動をも皆さんにお知らせしておきたい。
◆台湾川柳会30周年記念句会
去る3月3日(日)、台湾川柳会の創立30周年記念句会が、賑々しく楽しく開催された。
会場はいつもの國王大飯店(台北市)。
参加者総勢60名(日本側42名、台湾側18名)。
日本側では、小島蘭幸全日本川柳協会理事長をはじめ、江畑哲男副理事長、雫石隆子常務理事ら、日川柳の幹部らの姿もあった。
岡山県からはナント20人を超える参加者がツアーを組んで来台した。
「台湾川柳会創立30周年記念句会」については、杜青春台湾川柳会代表が早くからPRに動き、全国各地の川柳会に参加を呼びかけていた。
その成果は参加者数に表れている。
集合写真をご覧いただこう。
壮観そのもの!、である。
◆三つの意義
一口に記念行事と言ってもいろいろあるが、台湾のソレには特別の意義があると信ずる。
皆さんも何となく感じておられるだろうが、この機会にその意義をまとめておくことにした。
1)まずは、海外に於ける川柳の記念行事だという点だ。
これは、驚くべきことなのだ。
何しろ、パスポートがないと参加が出来ない。
国内の大会とはこの点がまず違う。
台湾が日本の統治下から離れて、約80年の歳月が流れた。
にもかかわらず、令和の今日でも日本の伝統文芸が詠み継がれている。
これまた、驚きである。
台湾の人たちは、いまでも日本語で日本の文芸を楽しんでおられる。
短歌・俳句、そして川柳の例会が、毎月台北市内で開催されているのだ。
こうした事実は、日本の有識者も案外ご存知なかったようだ。
台湾派として著名であった作家の阿川弘之も知らなかった。
阿川は正直に告白している。
《日本の統治下を離れて61年(注:執筆当時)、日本語を話せぬ世代が多数派となつた台湾に、今も歌人俳人がをり歌壇俳壇があることは叙上の通り、一応の認識を私も持つてゐるつもりだつたが、川柳を作る人たちがゐようとは、およそ想像すらしてゐなかつたから、先々月「酔牛」という題の台湾川柳句集の寄贈を受け、内容を見て驚きましたねえ。
……(以下略)》(『文藝春秋』2006年11月号)
かつて、『番傘』の読者も台湾には一定数存在した。
そして今も、『番傘』誌は台湾に届けられている。
右なる事実もこの機会に書き留めておきたい。
2)話を戻して、2つめ。
台湾川柳会は日本の川柳界以上に高齢化にさらされていた。
それもそのはず。
台湾の日本語世代は、大正生まれ〜昭和一ケタ。
昭和7年生まれの陳清波さんでさえすでに90歳を越えている。
台湾川柳会第2代会長李琢玉氏が、ある時小生にしみじみとこうつぶやいたことがあった。
《どうせ、滅びゆく文芸さ。
私たちの世代で終わるのだから。
》
李琢玉氏は台湾人初の川柳句集『酔牛』(2006年刊)を出版された、言わば巨匠である。
その巨匠が亡くなってから(2005年没)、これまた19年の歳月が流れた。
では、台湾川柳会はその後どうなったか? 琢玉氏の予言(=「会はいずれ消滅する」)のとおりになってしまったのか? 答えは否。
幸いなことにこの予言は当たらなかった。
琢玉没後もなお、台湾川柳会の活動は続いているのである。
なぜ、続いているのか? この点については、小生なりの論考を後述する。
3)3つめの意義は、国際交流である。
台湾川柳会第4代代表(第4代から「会長」の呼称を「代表」に変更した)杜青春氏の活躍は、めざましい限りだ。
日本各地の川柳会を飛び回り、歩き回り、全日本川柳協会をはじめとする全国大会にもこまめに顔を出している。
日本人のどの川柳人よりもフットワークが軽い。
青春氏の行動力には目を瞠るばかり。
いまや、杜青春の名を知らない川柳人はいない。
いたとしたら、「もぐり」(笑)だ。
そう申し上げても過言ではあるまい。
しかも氏は、大会前後の懇親会にも勇んで出席し、人なつっこいキャラクターとギャグ力(!)で、日本国中の川柳人から愛されている。
そんな外国人を小生は見たことがない。
こうした功績が積み重なって、令和元年(2019)6月、全日本川柳協会は杜青春氏に対して特別表彰をさせていただいた。
理由は、川柳を通じての国際貢献であった。
この表彰はご本人にとっても喜ばしいことであろうが、もしかしたらそれ以上の意義があったのかも知れぬ。
台湾の仲間が喜び、日本の川柳人もこぞってお祝いしあうという、日台双方の慶事となったからである。
◆台湾川柳会から学ぶこと
さて、その台湾川柳会から日本側が学ぶべき点がある。
いくつかある。
(ア)会員の多彩な顔ぶれ
台湾川柳会の会員はじつに多彩である。
台湾人もいれば、日本人もいる。
同じ台湾人でも、日本語世代と戦後世代に別れる。
在台湾の日本人会員でも、現地在住者もいれば、一時滞在の方もおられる。
もちろん、在日本の川柳仲間も数多く台湾川柳会の会員になっている。
戦後世代の会員の「現職」がきわめてユニークである。
主婦やリタイア世代に始まって、会社役員、元銀行員、作家兼ユーチューバー、旅行添乗員、大学の教員、医者、学生、等々。
同じく学生と言っても、台湾留学中の日本人もいれば、逆に日本に留学中の台湾人もいる。
まさに多様性と呼ぶのにふさわしい。
こんな多種・多様・多彩な会員を抱える川柳会は日本にはない。
そう言えば、帰国をしてしまったが、日本人ジャーナリストも在台湾時代に句会によく顔を見せていた。
たしか、大手新聞社台湾支局の記者だった。
(イ)日本語と日本文化を楽しむ
こうした多彩な顔ぶれゆえか、はたまた海外展開の会ゆえなのか、台湾川柳会は一種独特の趣を呈している。
ズバリ言えば、日本の川柳会のように川柳そのものにどっぷり浸かる、という集まりではないのだ。
川柳を通じて日本語や日本文化を楽しもう、という雰囲気がいつも感じられる。
台湾川柳会独特の文化と伝統かも知れない。
20年ほど前の例会時のこと。
日本の当時の流行語が話題になっていた。
「おいおい、『元カレ』って知ってるか?」などと、お隣に楽しそうに話しかける長老。
対して嬉しそうに応答する、これまた老台湾人。
もちろんすべて日本語による会話だ。
そんな微笑ましい光景に小生は何度も出くわしている。
かと思えば、台湾文化をこちらが教わることもあった。
「ハンパオ紅包」という句語が出てきた時のこと。
「紅包って、分かりますか?」と台湾人に訊かれて、「分かりません」と答えた。
さもありなんという表情で、台湾の「紅包文化」を小生に説明してくれたのだった。
嬉しそうな表情。
まるで子どもに説明するように話してくれた。
そんな台湾の川柳仲間の顔が20年後の今でも印象に残っている。
最近の会報を拝見しても、配慮が至るところに感じられる。
日台双方の読者への気遣いがふんだんに盛り込まれているのだ。
それは、痒いところに手が届くほどの配慮である。
廖運藩先生が受章(行政院客家委員会から客家事務専業賞一等賞受章、2023年12月28日)の栄を受ければ、カラー写真とともに掲載される。
慶事が読者の共有するところとなるのだ。
台湾の流行語に解説が施されることもある。
「『低頭族』とは日本語でいう『ながらスマホ』のこと」と。
なるほどねぇ。
これなら句の背景がよ〜く理解できる、そう感心した次第である。
さらにさらに次の句、「青紅が●圓仔(ソヲイナア)の冬至かな」(市川春樹)。
こんな解説が加えられている。
《青=台湾最大野党中国国民党のイメージカラー、赤=中国共産党。
●圓仔=団子をこねる、談合の比喩。
台湾の総統選に向け、与党の民進党に勝つため、共産党は親中派の国民党に色々と戦略指導をしているらしい。
因みに台湾では冬至になると、暖かい団子スープを飲み、冬に備える風習がある。
》(●=沙の下に手)
ことほど左様に、配慮の行き届いた川柳誌を見たことがない。
読者ファーストの姿勢に驚かされるばかりである。
他方、日本の川柳誌は作品を掲載するだけに労力が費やされている。
かつてどの柳誌をも賑わせていた評論はすっかり影を潜めてしまった。
そして多くは、入選句掲載だけの川柳誌に成り下がってしまった。
残念なことである。
台湾の会報はそうではない。
柳論こそないが、トピックは多い。
コレは?という作品には背景や解説が施される。
こんな編集からも、私たちが台湾から学ぶべきことがあるはずだ。
◆第一回台湾川柳大賽開催さる
(ウ)特筆したいのが、ごく最近の動きである。
写真をご覧いただきたい。
何だか、アニメから飛び出してきたようなアングル。
川柳とは無縁の世界のようにも見える(笑)。
じつはコレ、台湾で開催された川柳コンクールの呼びかけ用カードの表面だ。
何だかほっこりしてくる。
3月の台湾川柳会創立30周年記念句会が一つの契機となって、第一回台湾川柳大賽(コンクール)が開催された。
本企画の立役者は沈美雪先生。
中國文化大學日本語文學系日本研究中心執行長を務めておられる。
沈先生曰く、「台湾で日本の川柳がさらに広まることを願っている」と。
嬉しいコメントである。
このコンクールには一般社団法人・全日本川柳協会も後援させていただき、過日副賞を授与させていただいた。
ついでに申し上げれば、江畑哲男も個人として拙著『魔法の文芸─川柳を学ぶ』(飯塚書店)20冊を寄贈し、受賞者各位に貰っていただいた。
同コンクールの選者は、日台の川柳人が相協力して務めた。
杜青春・廖運藩・陳清波(以上台湾側)、細井吉之輔・北川拓治(いずれも敬称略)と江畑哲男(以上日本側)。
ユニークだったのは、受賞作品と氏名だけではなく、大学名と指導者のお名前までが明かされていたこと。
「老師」まで明記するのは、台湾の教育風土なのだろうか?
課題「命」(江畑哲男選)「子が生まれ二十四時間奪われる」(施彦汝、東呉大学、陳冠霖老師指導)といった具合に、である。
台湾川柳大賽は第1回の開催だった。
第1ということは、これからも続くということだ。
こうした動きに、日本の皆さんはぜひご注目いただきたい。
そして、応援をしていただきたい。
なお、詳しくは中國文化大學のホームページに譲ろう。
入賞した学生の晴れ姿が、選考経過や各選者の選評とともに掲載されている。
左記URLからもアクセスできる。
https://japanese.pccu.edu.tw/p/405-1109-123550,c17734.php?Lang=zh-tw
さらに付言する。
8月以降にずれ込むようだが、入選句の小冊子刊行を計画している、とも。
また、『跟我學日語』という日本語学習誌に選者各位の総評を掲載すべく、出版社の社長と交渉中だとも伺っている。
こうした旺盛な広報活動を見ると、もはや本家日本をはるかに凌駕しているように思えてくる。
このような事前・事後の活発な普及活動からも、私たちは台湾から学ぶ必要があるのではないか?
かくして、台湾川柳会創立30周年記念句会の意義は台湾だけに留まらなかった。
途中強調したように、台湾30周年は日台双方にとっての慶事であった。
喜ばしいニュースはこれからも続くであろう。
そう確信している。
日台交流の絆を、双方の川柳人の力を合わせて、今後とも前に進めていきたいものである。
(東葛川柳会代表、一般社団法人・全日本川柳協会副理事長)
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