台湾危機の今こそ日本が知るべき終戦時の台湾人の悲哀  樋泉 克夫(愛知県立大学名誉教授)

【WEDGE infinity:2022年8月26日】https://wedge.ismedia.jp/articles/-/27721

 8月2日のナンシー・ペロシ米下院議長(民主党)一行に引き続き、14日夜には民主党のエドワード・マーキー上院議員(上院外交委員会東アジア太平洋小委員会委員長)が率いる超党派議員団5人が電撃的に台湾を訪問した。さらに21日にはインディアナ州のエリック・ホルコム知事(共和党)が台湾に到着し、22日に蔡英文総統と会談するなど、米国政界の台湾に対する関心の高さが、改めて内外に強く印象づけられた。

 ホルコム知事は「長年にわたる関係を強化するための訪台」と語っているが、台湾問題に対する米国の一連の積極姿勢が「台湾は中国民主化のためのテコ」と位置づけ、それゆえに「台湾の民主主義の後ろ盾」であり続けようとする米国の固い決意に裏打ちされている。同時に、世界の覇権を目指し膨張を続ける中国を押さえ込もうとする強固な国家意思に下支えされていることも、紛れもない事実だろう。

 いまや米中両国は国際政治の力関係に基づき、互いが台湾を挟んで、その向こう側に身構える難敵を見据える。半世紀昔に北京で実現したニクソンと毛沢東の米中両首脳による握手が、まるで一幅の戯画に変じてしまったようだ。

 このように緊迫した状況を前に、日本でも習近平政権による台湾に向けた挑発的で尊大で強硬な振る舞いに対し、多くの国民が強い懸念と警戒感を抱く。もはや以前のように「子々孫々までの友好」などといった世迷い言を口にする日本人はいないだろう。たとえ今年が日中国交正常化50周年に当たるとしても、である。

 だが、だからといって時の勢いのままに両手を挙げて米国の姿勢に同調することには躊躇いを覚える。それというのも、日本と台湾との結びつきは米国とは異なっているからである。1895年から1945年までの半世紀、台湾は日本だったのだ。

◆終戦後、日本から台湾へ帰った青年の言葉

 現在、葉山達雄を知る日本人は皆無に近いだろう。だが、彼が人生の一時期を正真正銘の日本人として雄々しく生きた台湾人であったことを、敢えて記憶に留めておきたい。以下、彼の親友であった楊威理『ある台湾知識人の悲劇  中国と日本のはざまで 葉盛吉伝』(岩波書店 1993年)に基づく。なお《 》は同書に収められた葉山の日記である。

 1923(大正12)年に台北で生まれた葉山は仙台の第二高等学校に進学し、同校明善寮で日本の若者としての青春を送る。敗戦1年前の44(昭和19)年7月19日の日記に《今にして、二高生を除いて日本をこの危局から救うものはない。明日行われる生徒大会こそ、実に日本精神史に特記すべき日となろう。本当の日本は明日を期して生まれ行くのだ》と綴った。この瞬間、葉山は紛れもなく第二高等学校明善寮寮生であり、「本当の日本」を熱く希求していた。

 それから9カ月が過ぎた45(昭和20)年4月、東京帝国大学医学部に進む。だが僅か4カ月後には日本は敗戦に至り、葉山が望んだ「本当の日本」は幻と消え、台湾人・葉盛吉に還っていった。

 45年10月19日の日記に《八年の苦しい戦いをへて、祖国は今栄えある勝利に達した。我々はこの偉大なる努力の結晶が次に時代の飛躍力たるを信じて疑わない》と記す一方で、それから2カ月が過ぎた12月16日には《我らは日本の帝国主義を打倒した。しかし、我らは日本の滅亡を断じて望まない》と呟くことも忘れてはいない。

 台湾人・葉盛吉は「日本の滅亡を断じて望まない」との思いを抱きつつ、心躍らせながら「祖国」への「光復」を果たした台湾に帰郷する。だが、「ポルトガル人が麗しき島(Ilha Formosa)と呼んだ私たちの故郷が、蒋介石の国民党政権によってひどく荒らされていたとは、葉も私も、その他の多数の在日台湾人も、故郷に着く前は、全く知らなかった」。ここに「私」と記すのが楊威理である。

 楊は「台湾人は中国への復帰を心から喜んだ。あたかも虐待された里子が実家に戻ったが如くに。一九四五年十月、台湾人は大陸から来た中国政府の官吏とその軍隊を迎えた。その歓呼の声は空に響きわたるほどであった」。だが「同じ中国人でありながら、大陸から来た、いわゆる『外省人』は、あたかも征服者のごとく振る舞い、『本省人』の台湾人を虫けらのように取り扱った」と痛憤を隠さない。これが当時の台湾人一般の偽らざる思いであったに違いない。

◆「征服者のごとく」振る舞われる日々

 46年4月8日、「五年ぶりで懐かしの故郷に帰ってきた。基隆港に着いた・・・第一印象」を、葉は日記に《埠頭にいる国軍は実力なし。幻滅的悲哀を感ず》と吐き捨てた。48年1月10日には《社会は退廃とサボタージュ。貧汚と淫乱。Alkoholismus〔アル中〕に豚》と哀しみと苦しみが交錯するやり切れない思いを綴る。

 因みに日本の敗戦を機に「ポツダム少尉」から学生に戻り、台湾に帰って台湾大学で学業を続けようと決心した台湾青年・岩里政男は、大陸からの国民党兵士を軽蔑する仲間に対し、「我らが国家のため、こんな劣悪な装備でも、国軍は日本人に打ち勝つことが出来た。考えられないことだ。彼らに感服の眼差しを送るべきだろう」と語り掛けている。李登輝、23歳の春である。

 葉が編入学した台湾大学医学部は、「あたかも征服者のごとく振る舞」う外省人によって制圧されていた。「虫けらのように取り扱」われた本省人を糾合し、国民党による暴政に反対の声を挙げ、葉は国共内戦に勝利しつつあった共産党に台湾の将来を託そうとした。だが悲しいことに、「大陸に住んだことのない台湾人は、中国共産党の実態を全く知っていなかったのである」。

 「中国大陸で血なまぐさい闘争を続けてきた」が、「一九四九年十二月に大陸から追い出された国民党は、この闘争の舞台を台湾に移した。葉はこの血の闘争で犠牲者」となる。

 「初冬の台北は、朝からこぬか雨が降っていた。薄暗い明け方に、葉を含めての十一名が呼び出され」て、台北の西南部を流れる新店渓の河端にあった処刑場へ送られる。50年11月29日のことであった。つい数年前までの日本時代、一帯は馬場町と呼ばれていた。

◆次々に弾圧された台湾の知識人

 もう1人、台湾大学医学部で葉の2年後輩に当たる顔世鴻の人生を、彼が著した『青島東路三號』(啓動文化 2012年)から尋ねてみたい。

 さつま芋の形に似ているところから、かつて台湾の人々は自らを「いもっ子」と呼んだ。いもっ子の1人である顔世鴻は、1945年3月に台北帝大医学部に入学する。だが戦況は厳しく勉学どころではなく、当然のように国土防衛の前線に赴く。それから半年ならずして日本は破れ去った。

 台湾防衛の任務を解かれて動員先から大学に戻った顔ら学生を前に、当時の安藤正次総長は訴えかける。(以下、『青島東路三號』に中国語で示された挨拶の一部を訳してみた。安藤は日本語で語り掛けたはずだから、原文を読んでみたいものだ)。

──「1人の日本人として、こう言うべきではないかもしれませんが、1人の知識人としては、すでに開戦時には今日の事態は予測できました。・・・犠牲になった学友を除き、君らは無事に帰還してくれました。誠に、誠にご苦労様というほかありません。

 我らが国家は敗れ、一切は灰燼に帰してしまいました。今後の国家の建設と復興は、凡て君らの2本の腕と叡智にかかっているのです。記憶してくれたまえ。一切を失った者は一切を得ることができる、ということを。君たちが心の中まで荒ませてしまったら、我らの国家は本当に衰亡の道を歩んでしまうのです。

 いま申し上げたことを、どうか、どうか心に深く刻み込んでくれたまえ。『一切を失った者は一切を得ることができる』。有難う。本当に、本当に、ご苦労様でした」──

 日本は敗れ果て、形の上からだけでも中華民国は勝利した。安藤が口にした「我らが国家」は、もはや顔にとっての「我らが国家」ではなくなったのである。

 やがて顔は汽車で帰郷する。車窓から目にした風景は一変していた。「大半の民家の屋根には(中華民国国旗の)青天白日旗が挿されていた」。「(故郷の)集落では深夜までドンチャン騒ぎであり、まるでお祭りのようだった」。誰もが中華民国を祖国と思い、祖国の内懐に抱かれる喜びに沸きあがっていたのだ。

 だが台湾海峡を渡ってやってきた祖国の「役人と兵は台湾を自らの殖民地と見下す。最高責任者の陳儀長官までもが民権すら知らず、それまでの日本時代の教育を殖民地教育・奴民教育と呼ぶほどだった。これこそが、台湾人の怨みの根源」であった。

 47年に台北大学医学部と名前を変えた母校に戻った顔らは、国民党政権の独裁、台湾人無視、底なしの腐敗に怒りを滾(たぎ)らせ、学生を中心に反国民党勢力の糾合に動く。

 だが、国民党政権の無慈悲極まりない「白色テロ」に犠牲者の山を築くしかなかった。顔もまた逮捕され、台北市内の青島東路三号に置かれた国民党軍法監視所に放り込まれる。「あの荒みきった時代、台湾の知識人は次々に青島東路三号にブチ込まれた。幸運な者に待っているのは緑島。不幸な者の向かう先は生臭く凄惨で、血塗られた馬場町」。

 顔は流刑処分となった。「幸運な者」に組み入れられたものの、実際は政治犯として絶海の孤島で一生を終えろ、である。

 64年、顔は幸運にも釈放され再び医学の道に進む。そして「生きていたら彼らは台湾、中国の俊英であり国家を支えてくれたはずだ。40年が過ぎ去った」と述懐する。

◆内に秘める外省人としての?矜持?

 葉山や顔が明日を託そうとした中国共産党は?隆盛?を極め、いまや台湾を呑み込もうと牙を研ぐ。まるでハイエナのように。

 筆者は68年夏、「自由中国」と呼ばれていた当時の台湾を初めて訪れた。台北西郊に位置し台湾海峡に面した古い港町の淡水にあった淡江文理学院で行われた1カ月ほどの短期語学研修に参加するためである。

 夜な夜な通った街の屋台のオヤジは外省人ではあったが元下級兵士であり、台湾における日々の生活に満足している風でもなかった。目の前の日本人大学生を前に、大陸を制圧した共産党の非道・理不尽ぶりを痛憤のままに語り続けてくれたが、ある時、ふと「そうかもしれませんが、共産党政権は原爆実験に成功しましたよ」と口にするや、「な、中国人はスゴイだろう」と、急に顔をほころばせたことを覚えている。しょせん屋台のオヤジは台湾人にはなりえなかったように思う。

 淡江文理学院では5人ほどの学生とつきあったが、なかでも林クン1人が浮いていた。それというのも本省人の彼を除き、他は外省人だったからだ。

 林クンと2人だけになった時、「じつはボクも外省人なんだ」と重い口を開いた。そこで一族台湾移住の時期を尋ねると、「清朝の中頃で、福建から台湾への移住が解禁されたからだ」。もちろん、「それって本省人だろう」などと口にはしなかったが。

 本省人がさまざまな形で不利益を被ることに耐えなければならなかった時代であればこそ、林クンの苦しげな一言に同情を禁じ得なかった。あるいは外省人の?矜持?を心の内に秘めることで、林クンは精神の平衡を保とうとしていたのかもしれない。それは私かに「中国人」であり続けた屋台のオヤジの心情に通ずるようにも思える。

 あれから半世紀余が過ぎ、台湾をめぐる内外状況は激変した。

 かつて李登輝は司馬遼太郎に向かって「台湾人に生まれた悲哀」を語っているが、「台湾有事は日本有事」が現実味を帯びて語られるようになった今だからこそ、日本人として、その「悲哀」に思いを致す必要があるはずだ。「加油台湾(ガンバレ台湾!)」を叫ぶだけでは、「悲哀」の2文字に込められた複雑な心情を汲み取ることはできそうにない。

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樋泉克夫(ひずみ・かつお)愛知県立大学名誉教授中央大学法学部、香港中文大学新亜研究所、中央大学大学院博士後期課程を経て外務省専門調査員として在タイ日本国大使館勤務。著書に『華僑コネクション』『京劇と中国人』『華僑烈々─大中華圏を動かす覇者たち─』(以上、新潮社刊)など。

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