台湾の変化を追い続ける楽しみ [理事・平成国際大学教授 浅野 和生]

【機関誌『日台共栄』2月号 台湾と私(19)】

 新宿で開かれた日本と台湾の学者、専門家の会合、大陸問題研究会議に初めて出席し
たのは昭和六十二(一九八七)年三月のことだった。そして翌年三月、今度は台北で開
かれた同会に出席するため初めて台湾を訪れ、台湾の空気を確かめた。

 近代日本政治史研究をしていた筆者の同会参加は、当時大学院で指導教授だった慶応
義塾大学の中村勝範先生のお誘いによるものだった。

 昭和六十二年といえば、七月十五日に三十八年間続いた台湾の戒厳令が解かれた年で
あり、翌年三月といえば、一月に台湾で蒋経国総統が亡くなり、李登輝総統が誕生して
間もないころである。台湾との出会いがこれより前であれば、筆者が台湾に対してこれ
ほど深い関心を持つことはなかったろうし、これより遅かったら、台湾の偉大な変化を
見逃すことになっただろう。まさに、師の学恩の深さを思わないわけにはいかない。

 その後、平成四年に、この会議で親しくなった台湾の先生方のご協力を仰いで、勤め
先の大学の学生を引き連れて台湾研修をスタートさせた。時は十二月、一九四九年から
万年議会化して四十年ぶりに行われた立法委員選挙の、選挙戦のクライマックスを学生
とともに見学した。小学校の講堂で開催された演説会を見に行ったときには、訪問団長
だった浅野一郎先生(当時は関東学園大学教授)が台湾マスコミに感想を求められ、そ
の答えが翌日の朝刊を飾る一幕もあった。

 あれから十六年、筆者の勤め先は変わったが、大学生の研修は毎年欠かさず実施して
いる。

 さて、平成七年六月には東京で日華関係研究会の発足に加わった。中村勝範先生と当
時の台北駐日経済文化代表処・林金茎代表との意気投合が同会発足のきっかけである。
以来十二年半、すでに同研究会は百五十回を超えている。

 ところで、今では台湾という呼称を使うことに疑問を示す人は日本にいないが、国民
党政権下では長い間、台湾の政府関係者は中華民国の国名にこだわり、台湾という名称
を忌避していた。陳水扁政権で総統府国策顧問に就任することになる金美齢さんが、同
研究会で「時代は日華から日台へ」と題して講演したのは九六年六月だったが、それか
ら五年を経て、日華関係研究会は日台関係研究会に改名した。

 去る一月十二日、立法委員選挙で与党民進党が大敗し、野党国民党が大勝した。国民
党は単独で立法院の三分の二を超える議席を獲得し、友党と合わせれば憲法改正も総統
罷免も要求できる四分の三に達する議会情勢となった。

 戒厳令解除から二十年、議会民主化から十六年余の間、台湾政治の変化は多様であり、
国内政治構造、政党構成も対外関係も現状維持であったためしがない。

 十年前はもちろん、昨年の、否、半年前の常識も台湾では通用しない。だから台湾の
変化を追い続けることは実にたいへんである。しかしてまた、隣人として、そこに映し
だされる台湾の人々の逞しさを見ることはまことに楽しい。

 考えてみれば、蒋介石、蒋経国の国民党一党独裁の下で、台湾が急速な工業化に成功
した状況は、きわめて台湾らしかった。台湾が四匹の小龍の一匹として注目された八十
年代、台湾は他の三匹の龍と全然似ていなかった。それは普通の台湾の人たちの台湾ら
しさの反映なのである。したがって、その後の民主化によってその傾向は増幅し続けた。
台湾は、いまや指導者の交代ですべてが変わる独裁国家ではないから、政権の如何で台
湾らしさが退行することにはならないだろう。むしろ、今後ますます台湾らしさが強く
示されることを期待している。