台湾政治はまるで韓流ドラマのように展開が速い。しかし、それもいささか行き過ぎではないかと思えるほど、今回は途方に暮れてしまった。それはもちろん、巨大企業ホンハイの創業者であるテリー・ゴウ(郭台銘)が、台湾総統への野心をあらわにし、野党国民党から台湾総統選に立候補することを表明したからだ。これまでの選挙構図を一変させる衝撃が台湾に広がり、その波紋は世界にも及んだ。
なんといってもホンハイは日本のシャープも買収した実績を持ち、2018年のグループ売上高は19兆円に達する超巨大企業。企業トップの政治指導者としては米国のトランプ大統領が思い浮かぶが、企業人としての実績はテリー・ゴウがはるかに上である。
◆貧しい少年時代を支えてくれた媽祖様の「お告げ」
テリー・ゴウは17日、台湾・板橋にある道教の廟・慈恵宮を朝11時に訪れた。その理由は、総統選への出馬の最終意思を固めるためだった。慈恵宮はテリー・ゴウにとって特別な意味のある場所だ。かつて、貧しい少年時代を送ったテリー・ゴウの一家は、住む家がなく、この慈恵宮の一角を間借りして暮らしていたからだ。大学にも行けず、叩き上げでホンハイを立ち上げ、世界企業にまで成長させたテリー・ゴウにとって、航海の安全を願う神である媽祖を祀っている慈恵宮は、昔もいまも、彼の原点である。
テリー・ゴウは集まった記者団にこう語った。
「今日は特別に媽祖様にお伺いを立てにきました。20年後の台湾を考えれば、2020年の選挙はとても重要であり、私が出馬すべきかどうか。実は、媽祖様は数日前、夢で私に掲示を与えてくださった。媽祖は夢に託して出馬を求めてきた。私は彼女の命ずるところに従う」
ドラマチックな出馬表明はもちろん派手なパフォーマンスを好むテリー・ゴウの演出であろう。しかし、その衝撃は本物だ。これまで、2020年の総統選をめぐっては、民進党が現職総統の蔡英文と元行政院長の頼清徳の一騎打ちになっており、国民党は、元新北市長の朱立倫、元立法院長の王金平、そして先の統一地方選で韓流人気を巻き起こして一躍政治スターとなった現高雄市長の韓国瑜らが争う混戦状態。両党で、4月から5月にかけて、激しい争いと駆け引きが展開されることが確実視されていた。
しかしながら、このテリー・ゴウの出馬によって、選挙情勢は大きく変貌するだろう。その具体的な流れはまだ読みきれないところもあるが、同じカリスマ的な候補者として有力視されていた韓国瑜はテリー・ゴウと支持層が被ってくる可能性が高く、出馬の見通しは大きく下がったと台湾メディアは報じている。最新の世論調査の結果はまだ出ていないが、朱立倫、王金平は人気では到底、テリー・ゴウにかなわないだろう。
もともと統一地方選の大敗の前から、民進党の蔡英文総統の支持率は低迷しており、復活の兆しはなかなか見えてこない。立候補を表明した頼清徳との内紛に近い権力闘争が起きている。ますます民進党の復活は厳しい。そうなると、いま最も総統の座に近いのはテリー・ゴウということになる。もちろん台湾政治は、一寸先は闇。そう簡単に行くとも思えないが、いまのところ、テリー・ゴウ立候補の知らせで、台湾のムードは一変してしまった。これから5月にかけて国民党の党内選挙が行われる見通しだ。
テリー・ゴウの出馬の背後には、現主席の呉敦義、馬英九前総統、副主席の郝龍斌らが一致して画策した、という情報もある。彼らは前馬英九政権で党運営の主導権を握っていたが、現在の総統候補レースでは呉敦義や馬英九は人気が伸びておらず、妥協案としてテリー・ゴウという神輿を担ぐことで権力確保を狙ったとしても不思議ではない。
テリー・ゴウは、日本では間違いなく、最も有名な台湾の経営者である。その彼が出馬するというのだから、日本では当然、大きなニュースになった。なにしろ、日本のナショナルブランドであったシャープを買収し、一時は東芝の半導体部門も買い取るという話になったこともあった。そのたびに日本での知名度はうなぎのぼりに上昇している。
今回、テリー・ゴウの出馬表明に対し、通常は海外で野党の総統選候補に立候補したニュースではありえない「速報」を日本メディアが流したことも当然といえる。
◆2年前に、私が出馬を予想していたワケ
私の電話やメールには、昨日から、シンクタンクやメディア、日本政府の関係者から連絡が相次いで入っている。過去、日本各地で台湾政治について講演したり、記事を書いたりするにあたり、テリー・ゴウが国民党の切り札になる可能性を指摘してきたこともあるだろう。その私でも、今回の出馬表明は意外であった。というのも、九合一選挙のあと、韓国瑜という新しい国民党の政治スターの登場によって、テリー・ゴウへの注目度は低下していたからだ。どんな理由でテリー・ゴウが最終的に立候補を決めたのか、その内心や政治的な背景を読み解くことは現時点ではなかなか容易ではない。
ただ、私は、テリー・ゴウが出馬を表明した台湾のテレビを日本で見ながら、NewsPicksというメディアに「郭台銘が台湾総統になる日」という原稿を2017年6月6日に発表したときのことを思い出していた。
そこで私は、郭台銘が台湾総統になるかもしれない理由について、こんな分析をしている。
<台湾で生まれ育って企業人として頂点を極めた野心家にとって、次のステップが政治の世界であるというのは、あながち、ありえない話ではない。台湾では日本同様、過去にビジネス出身者が政治のトップになったケースはない。しかし、同じ東アジアの韓国では前々任の李明博大統領がおり、米国のトランプ大統領の勝利は誰もが思い浮かべるケースだろう。加えて、プーチン、習近平、トランプ、ドゥテルテなど、個性的で強気なキャラクターが世界政治の枢要を占めつつあるなか、何かとその派手な言動で注目を集めてきた郭台銘もそうした条件にあてはまる。台北市長の柯文哲など「素人政治家」が選挙民に好まれる傾向はすでに台湾にも及んでいる>
いま読み返してみても、それなりに的を射ているような気もする。20兆円近い規模の大企業帝国を作り上げた男にとってさらなるチャレンジは政治における総統のポストしかないのであろう。そして、次にこう書いた。
「素人政治家でユニークなキャラクター、ビジネス出身で強いリーダーシップといった現在の世界の政治トレンドに、テリー・ゴウという人物が合致していることは確かだ」
テリー・ゴウは、総統選の候補となった場合、そのリーダーシップを全面に打ち出して選挙戦を戦うであろう。いま世界はかつてない未来の見えない不安定な時代に入ろうとしている。どの国でも、少々強引でも、決断力や発信力に定評のある強いリーダーを求める傾向が強まっている。米国のトランプしかり、ロシアのプーチンしかり、日本の安倍晋三しかりだ。
蔡英文総統の人気不足も一言で言ってしまえばリーダーシップの欠如に起因していると言わざるを得ない。テリー・ゴウのリーダーシップは独裁といっても過言ではないほどだが、その点は保証つきである。
◆テリー・ゴウこそ、中国政府の「意中の人物」?
日本では、テリー・ゴウの出馬に対して、特に経済面で日本への影響が想定されるため、強い関心を示していくだろう。産経新聞は「ホンハイ傘下で再建を進めてきたシャープにも影響が及ぶのは必至の情勢だ。テリー・ゴウはホンハイを一代で巨大企業に成長させたカリスマ経営者で、シャープの経営にも影響力を持つだけに、退任となれば足元の業績が揺らぐシャープにとって、さらなる波乱要因になりかねない」とさっそく書いている。
実はテリー・ゴウは今月9日に東京を訪れたばかりだった。東京の営業拠点でシャープの戴正?会長と共に、8Kの映像技術や折りたたみディスプレイの試作品などを、来日中だった中国・広東省の幹部らにアピールしたばかりだった。
シャープは、ホンハイの支援のもとで順調に経営再建を進めていたが、中国経済の減速とともに一時の勢いに陰りが出ているだけに、郭台銘の出馬は、シャープにとってプラスに働かないのではないかという心配が広がった。産経新聞では経済アナリストが「ホンハイは郭氏の経営力で成り立っていた企業であり、それが抜けるのは大きな問題だ」と指摘している。
当然、中国でいくつも巨大工場を有するホンハイグループのトップであるテリー・ゴウは中国政府との密接な関係で知られている。そのテリー・ゴウこそが中国政府の「意中の人物」であるという見方も出ている。一方、テリー・ゴウは米トランプ大統領の故郷に巨大投資を行っているなど、トランプ大統領との親しい関係も報じられている。もちろん日本ではシャープの買収、東芝の半導体事業への出資などをめぐってすでに知名度は高い。世界的経営者としては、ソフトバンクグループ会長の孫正義に匹敵するかそれ以上の存在感を持つテリー・ゴウがもしも順調に国民党の総統候補に選ばれた場合、いまから8ヶ月後の台湾総統選までに、どのようなパフォーマンスと政策を見せてくれるのか、世界と台湾は期待と不安の入り混ざった眼差しで注視することになるだろう。