【追悼】 日本人秘書・早川友久が明かす李登輝元総統への思い

【WEDGE infinity:2020年9月29日】https://wedge.ismedia.jp/articles/-/20788

 「その日」はあっけなくやって来た。

 2020年7月30日午後7時24分(台湾時間)、李登輝がこの世を去った。

 2月に誤嚥性の肺炎で入院して以来、遠からずこの日が来るのは分かっていたし、覚悟していた。生命の兆候を示す様々な数値であるバイタルサインが、ゆっくりではあるが少しずつ低下していたからだ。ご家族と、李登輝に仕えるほんの一部の人間だけで「新しい年は迎えられないかもしれない」という情報も共有されていた。

 李登輝が亡くなる前々日、深夜にも差し掛かろうかという時間帯に、私のスマートフォンが鳴り止まなくなった。メディアの一部から「李登輝危篤」の情報が伝わり始め、それを受けて台湾に支局を置く日本メディアから次々と問い合わせが入ったからだ。すでに李登輝が入院する病院に到着してから電話をしてきた支局長もいた。確かに、その数日前から事務所内では「夜中でも電話に出られるようにしておけ」という指示は出ていたので、この日になって情報がどこかから漏れ出したのだろうと推測した。

◆全力で尽くしてきた8年間の終わり

 手前味噌だが、私は8年間、自分なりに全力を尽くして李登輝に仕えてきたという自負がある。前任者から引き継いだこと、事務所内でのやり方を尊重しつつも、どうすれば李登輝がより仕事をしやすくなるか、より多くの情報を届けられるか、といったことを常に考えて改善してきた。

 些細なことかもしれないが、90歳を過ぎてこれまでよりもまた視力が落ちてきた李登輝のために、講演原稿のフォントをさらに大きくしたり、読みやすいように行間を広げるようにもした。これは原稿を読む李登輝が目を細め、かがみがちになるのを観察していたから分かったもので、李登輝に指示されて変更したことではない。

 晩餐会に李登輝が招待され、主催者が私も食事できるようにと別テーブルに席を用意してくれても、好意はありがたいながら、李登輝の近くを離れることはしなかった。警護のSPも近くにいるが、李登輝が賓客と会話をするなかで「あの資料を持っているか」「あれはいつのことだったかな」となったときに対応できるのは私しかいないからだ。

 著書に署名を求められたり、記念撮影を頼まれたりすることも必ずある。本に相手の名前を書くために名刺をいただいても、字が小さすぎて李登輝には見にくい。そこで私がまずモレスキンのノートに大きく書いて李登輝に見せるとともに、李登輝が愛用する太さのマジックを手渡す。写真を撮るときには「元総統」としてきちんと撮っていただけるよう服装のシワやボタンまで確認する。ときには少し乱れた髪にクシを通すこともあった。

 2015年の早慶新春交流会の席だった。台湾在住の早稲田大学慶應義塾大学の校友や留学生が一同に会して交流するイベントが毎年春に行われており、この年は李登輝がゲストスピーカーとして招かれていた。ちなみに、李登輝がゲストに呼ばれたのは過去3回あったが、毎回申し込みが殺到し、席があっという間に埋まってしまったという。

 李登輝は「台湾の主体性を確立する道」をテーマに講演し、質疑応答に移った。ただ、会場だった国賓大飯店の会場は広く、マイクを使っていても質問の声が聞き取りづらい。私が耳元で逐一質問内容を補完したのだが、会が終わった後に参加者から言われた。

「早川さん、まるで『ささやき女将』みたいでしたね」

 「ささやき女将」とは、2007年に食品偽装問題が発覚した高級料亭の謝罪会見で、息子である社長を助けようと、耳元でささやく声がマイクに拾われて放送されてしまった母の女将のこと、といえば皆さん思い出されるだろうか。

 友人でもある彼は、李登輝のすぐそばに立ち、耳元で質問内容を説明する私が、まるで「ささやき女将」のようだ、と言ったのである。周りはドッと笑ったが、あとになって反芻して考えてみると私はそう言われたことがうれしかった。

◆私は本当に李登輝のために働くことが好きだった

 私は李登輝の仕事が少しでもやりやすいように、李登輝の言葉がもっと多くの人に届くように、と考えて全力でやってきた。講演時の質問では、複雑でわかりにくい内容の質問が出ることも少なくない。「ささやき女将」と形容してもらえたということは、やや耳が遠くなり始めた李登輝に、聞き取りづらい内容の質問を、簡潔かつ明確に伝達する役割を充分に果たしているように見えたことの証左だからだ。

 私はそんな仕事が大好きだった。李登輝と一緒に仕事をすることが大好きだった。李登輝がどうすれば気持ちよく仕事が出来るかを考えるのが得意だった。李登輝の発言はメディアを通じて大きな影響力となっていく。日台関係をいかに深化させるかは李登輝にとって晩年のライフワークのひとつだったが、そのためにどんな発信をしてもらえばいいか研究することも楽しかった。自分が李登輝のために役立っていることが心底うれしかった。

 早朝や夜遅くにスマートフォンが鳴る。相手が「非通知」だった場合、それは十中八九、李登輝の自宅からだ。秘書あるいは当直のSPが「ラオパンから」と言ってすぐに電話が切り替わる。すると李登輝が「早川さん、あんた、来週の講演のテーマはどう考えてる?」とか「今日もらった報告だけど、もっと詳しい資料はないか」と矢継ぎ早に指示が出る。そんな指示を受けるたび、私はうれしかった。

 数年前、李登輝が少し体調を崩して入院したときのことだ。週末の朝に電話がかかってきて「今から来てくれ」という。急いで着替え、タクシーで向かったが30分ほどの間にSPが「もう自宅は出たか」「今どの辺だ」とせっついてくる。李登輝が「まだか」と言っているに違いないのだ。やっと病院の総統専用フロアに到着すると、李登輝は待ちかねていたように原稿用紙を取り出した。体調を崩したといっても、念のための入院だったため、毎日のようにスケジュールが入っている普段の生活のなかでは書けなかったテーマについて原稿をしたためたのだった。

 「人類と平和」とタイトルが書かれた原稿はもちろん日本語で、鉛筆による手書きだった。内容は「人間とはなにか」を聖書から説き起こすことから始まり、トルストイの『戦争と平和』にも言及し、「平和」を維持するために何が必要かを結論づけているもので、一読してすごい内容だと思った。私がこの原稿を読んでいる姿を、李登輝がニコニコしながら見ているのが横目に入ってくる。原稿が完成するや否や「誰かに読ませたい」と、朝から私が呼び出されたのである。

 数日前、李登輝が電話してきて、いくつかの書籍のコピーを届けるよう指示があった。事務所や李登輝の自宅にない書籍もあったので、台湾大学図書館まで探しに行ったものもあったが、これを書くためだったのかと合点した。

 原稿で、李登輝は「『平和』とは要するに戦争が行われていないという状態にすぎない」と書き、結論では国際社会の安定を考える上で、各国間の抑止やバランス・オブ・パワーを無視することが出来ない以上、国家が自国を守るために武力を持つことを排除することは出来ない、と書いた。ただ、武力を持ちつつも、いかにして戦争に訴えることなく秩序を保つのか、その方法を考えるのが現実的見解だろう、とも書かれていた。

 私は分かった。李登輝は当時、安倍晋三首相が決断した、集団的自衛権の行使容認を受け、それを側面支援するためにこの原稿を書いたのだ。日頃から「軍隊を持つ目的は戦争をするためではない。国際社会でいじめられないために持つのだ」と言っていた李登輝の主張を、文字に落とし込んだのがこの原稿だった。それほどまでに李登輝は日本に期待し、日本を応援することを厭わなかった。

 原稿を読み終わった私に、李登輝は得意そうに解説を始めた。きっと前の晩は奥様も読まされて感想を言わされ、同じように解説を聞かされたに違いない。でも私は、週末に呼び出されるのも、慌てふためいて駆けつけるのも、少しも嫌ではなかった。それほどまでに李登輝という人のために働くのが好きだった。

◆私たちは死んだら、千の風になるんだ

 7月30日の夜、私は「その知らせ」を淡水の事務所を出たところで、自宅担当の秘書として長年仕えてきた同僚から受け取った。いつその瞬間が来てもおかしくなかったし、もう心の準備は出来ていた。

 前日に、私はご家族の厚意で病室に入り、李登輝に最期のお別れをしていた。李登輝の容態が思わしくない段階に入ると、最期の時間は出来るかぎりご家族だけで過ごしていただきたい、という配慮から、私たち事務所の人間が病室に立ち入ることは控えてきた。しかし、いよいよの時を迎え、ご家族が声をかけてくださったのだ。

 李登輝は呼吸が乱れ、苦しそうだった。ご家族からは「日本語でたくさん話しかけて」と言われた。

 そう、李登輝にとって母語は日本語だった。私はこれまでいつもそうしてきたように、耳元で「総統」と呼びかけた。今まで何度「総統」と呼んできただろう。李登輝はいつも「総統」だった。退任して20年経っても私たちはみな「総統」と呼びかけた。いつか来ることは分かっていたが、この世にいる李登輝に「総統」と呼びかける最期のときが来たことがどこか現実的でないような気がしていた。今思い出してみても何を言ったのかあまりはっきり覚えていない。ただ何度も何度も「ありがとうございました」と感謝の言葉を繰り返していたことだけを覚えている。

 私は毎週のように、忙しいときは連日のように、李登輝と顔を合わせていた。仕えるようになって数年が経っても、毎回李登輝に会うごとに風圧のようなものを感じた。最初は緊張しているのかとも思ったが、この感覚は結局、最後まで消えることはなかった。

 ご自宅に行き、リビングのドアを開けると正面に李登輝の座るソファがある。そこに李登輝が座っている姿を見るだけで、圧倒されるような風圧を感じる。淡水の事務所では私の部屋と李登輝の執務室は隣どうしで、いつもドアは開け放たれている。私たちが「秘密の通路」と呼ぶ、関係者以外にはあまり知られていないドアを抜けて李登輝が入ってくると、やはり隣の部屋から風が吹き込んでくるような感覚に襲われるのが常だった。最期のお別れのとき、ベッドに横たわる李登輝を前にしてもやはり風圧を感じた。最期の瞬間まで李登輝は「総統」だったし、私にとっては大好きな「ラオパン」だった。

 不思議なことがあった。李登輝が亡くなった夜のことだ。

 李登輝が亡くなったのは午後7時24分(台湾時間)だが、私はちょうど淡水の事務所を出たところだった。事務所が入るビルの一階に降りて歩き始めてから、背広の上着を置いてきたことに気付いた。普段であれば、自宅には他の背広もあるためほとんど気にしない。また、事務所は30階なので、いったん戻るだけで結構な時間がかかるということもある。

 絶対に事務所に取りに戻らなければならないという必要はないのだが、なぜかその時の私は事務所に戻った。そして、これまたなぜか、「総統の執務室の写真でも撮っておこうか」と電気をつけて何枚か執務室の写真を撮ったのである。もうすぐこの執務室も主を失うことになる、と無意識に考えたのかもしれない。そして、再び階下に降り、歩いている途中に受けた電話が、その「知らせ」だった。

 あの日は台湾の東側を進む台風の影響もあって、真夏にしては珍しく強い風が吹いていた。私は「千の風になって」を思い出した。李登輝夫妻がこよなく愛する曲だ。キリスト教を信仰していた李登輝は「仏教でいう輪廻転生を私は信じない。来世などと言わずに、いまの人生をいかに意義あるものにするかが重要なんだ」と説いていた。だから、だいぶ前から「私たちは死んだら『千の風』になるんだ」と言っていた。

 いま振り返って思う。あのとき、李登輝は千の風になって淡水の事務所へ戻ってきたんだろう、と。総統を退任して以来20年、李登輝は生まれ故郷の三芝に近い淡水に置いたこの事務所を、活動拠点にしてきた。千の風になった李登輝は、その執務室を最後にちょっと見てみようか、と思ったにちがいない。けれども、電気が消えていて見えないから私を呼び戻して明るくさせたのだろう、と。

 李登輝に仕えた長い年月のあいだ、私は何度も李登輝に呼び出された。週末だったことも夜だったことも早朝だったこともある。でも私は李登輝に呼び出されるのが大好きだった。李登輝のために仕事をし、李登輝の仕事を手伝えることがうれしかった。事務所に戻り、執務室の明かりをつける「仕事」は、李登輝の私への最後の「呼び出し」だったのだろうと信じている。

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早川友久(はやかわ・ともひさ)1977年(昭和52年)、栃木県足利市生まれ。早稲田大学人間科学部卒業後、台湾総統府国策顧問だった金美齢氏の秘書に就任。2008年、台湾大学法律系(法学部)へ留学。台湾大学在学中に3度の李登輝訪日団スタッフとしてメディア対応や撮影スタッフを担当。2012年12月、李登輝元総統の指名により李登輝総統事務所の秘書に就任。台湾・台北市在住。主な著書に『李登輝─いま本当に伝えたいこと』。共著に『誇りあれ、日本よ─李登輝・沖縄訪問全記録』『日本人、台湾を拓く。』など。10月20日、新刊『総統とわたし─「アジアの哲人」李登輝の一番近くにいた日本人秘書の8年間』(ウェッジ)発売予定

──────────────────────────────────────※この記事はメルマガ「日台共栄」のバックナンバーです。


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