台湾でコロナを封じ込めた「鉄人大臣」の知られざる素顔  早川 友久(李登輝元総統秘書)

【WEDGE infinity:2020年4月28日】 https://wedge.ismedia.jp/articles/-/19452

◆鉄人大臣の父に影響を与えた日本教育

 台湾が新型コロナウイルスの抑え込みにかなり成功していることで、そのキーパーソンとして注目を集めているのが中央流行疫情指揮センター指揮官の陳時中だ。衛生福利部長(大臣に相当)を兼任する陳時中は、連日長時間にわたる記者会見でも「質問が出尽くすまで答える」と時間制限を設けていない。中国に滞在する台湾人ビジネスマンを乗せたチャーター便が台湾に戻り、検疫作業が行われた際には自ら現場に赴き「26時間眠らずに指揮をとった」とも報じられた。不眠不休で働く姿から、いつのまにかメディアでは「鉄人部長(鉄人大臣)」のニックネームで呼ばれるようになっている。

 李登輝はかつて総統として台湾の民主化を成功させたが、その原動力はなんだったのかと尋ねたときに「私が受けた日本教育」だと答えたことがある。つまり「人間生まれてきたからには、『私』ではなく『公』のために尽くすことに人生の意義がある」と徹底的に仕込まれたからこそ、自分はたとえ総統の地位についても私腹をこやすことなく、全力で公のために働こうという気概を持つことができたというのだ。

 陳時中が国民の生命と健康を守るため不眠不休で働く姿は、李登輝の私心を投げ出して執務に邁進する姿と重なってみえる。それもそのはず、陳時中が育った家庭も、日本時代に教育を受け、日本精神を学んだ父親の影響が大きかったと思えるからだ。

◆厳格な「鉄人大臣」が見せた人情味

 台湾政府は1月下旬に武漢のある湖北省在住者の入国を禁じた。そして早くも2月6日には全中国からの入国を禁止している。その後、対中国政策を管轄する、政府の大陸委員会が台湾人の中国籍配偶者と子供の来台を受け入れる方針を発表したが、陳時中は翌日、中央流行疫情指揮センターとしての強権を発動してこれを撤回させた。「台湾と中国どちらかの国籍を選ぶ際、中国の国籍を選んだ方には自己責任でお願いしたい」と述べ、あくまでも「台湾優先」で防疫政策を進める考えを示したのだ。「なぜ中国人配偶者まで台湾が受け入れなければならないのか」と国民から不満の声が多く上がっていたが、即時撤回を命じたことで、ネット上には陳時中を支持する声が溢れかえった。

 地元テレビ局のTVBSが3月26日に発表した世論調査では、蔡英文政権の支持率は60%を超え、陳時中の支持率にいたってはなんと91%という驚異的な数字を記録。早くも「次の台北市長に」という声さえ上がっている。陳時中が打ち出した感染防疫対策が功を奏していることは疑いのない事実であり、台湾の警告を無視したWHOでさえ、4月17日の記者会見で台湾の公衆衛生対策を『称賛に値する』とコメントしている。

 陳時中は厳格かつ冷静に出入国政策を進めていく一方、2月4日に中国の武漢から台湾に帰国した台湾人ビジネスマンの感染が確認されると、「感染された方はこれから大変だろう。しかし我々は必ず助けるために最大限の努力をする」と患者やその家族の苦労を思って落涙し、人情家の一面を見せた。

 自宅での隔離が求められた人に対し、台北市長の柯文哲は電子タグを装着させるべきだと主張した。自宅隔離を義務付けられながら、外出してしまい警察が捜索する事案が複数発生していたからだ。こうした声に対し、陳時中は「人間は豚ではないし、肉のかたまりでもない」と撥ね付け、「同情心にあふれた社会でなければこの問題は解決できない」と人心に訴えた。

◆立身出世よりも誠実さが大事

 彼のこうした特性は、どこから生まれたのだろうか。陳時中が若い頃、父と対立した経験を綴った文章がある。私が学生時代に参考書として使用した論文集『家族法新課題』に掲載されている。そのなかで陳時中は父を「過程論者」だと評する。それに対して自分はかつて「結果論者」だった、と。つまり、父の陳棋炎は結果よりもそこに至るまでの過程で、いかに努力を重ねたか、どれだけ地道に進んだか、というプロセスを大事にする人だった。それに対して自分は、努力したことよりも結果を出すことを重視していた。だが、年齢を重ねてようやく父の言う「過程の大切さ」を理解できるようになったという。つまり「做人做事(立身出世)」よりも「誠実さ」が重要だと気づいたのだ。

 厳格さと愛情を兼ね備えた父の陳棋炎は、若き日本時代に身につけた作法を全く変えようとしなかった。教壇に立つときの陳棋炎は、当時の学生からすればまさに日本留学帰りのジェントルマンで、髪には櫛を通し、背広をきちんと着こなし、常に黒の革靴はぴかぴかに磨かれていた。私の恩師である台湾大学教授の葉俊栄もまた陳棋炎の教え子である。葉俊栄のトレードマークは長い髪の毛だが、陳棋炎から「君の髪は長すぎる。切りなさい」と忠告されたこともあるそうだ。

 台湾大学教授のかたわら、東京大学中央大学に客員教授として赴任し、親族法の研究に勤しんだ陳棋炎と日本との縁は生涯切れることがなかった。日本で旧制松本高等学校の同窓会があれば駆けつけた。日本・台湾・韓国の三カ国が持ち回りで開いた民法研究フォーラムでは学者としてだけでなく、日本をよく知る世話人として先頭に立ったという。

◆鉄人大臣の父と、李登輝の共通点

 陳時中が、父の厳格さがもっとも現れているものとして挙げるのが「時間を守ること」だ。父はいつでも時間というものを大切にしていた。時間通りに出勤し、時間通りに帰宅する。小さい頃、時計の針が6時を指すのとほぼ同時に玄関の呼び鈴が鳴ることもしばしばだった。晩餐会があれば30分前には到着するようにし、自分が主催の場合は1時間前には会場にいたという。論文は提出日の前月には提出し、試験の採点は3日以内に終わらせ、受け取った手紙にはその日のうちに必ず返事を出していた。

 こうした父親のふるまいを、息子の陳時中はあまり気に留めていなかったらしいが、あるとき自分の息子の部屋に「今日事、今日畢(阿公説)」と標語が貼ってあるのを見て驚いた。「今日やるべきことは今日終わらせよ(おじいちゃんの教え)」という意味だ。これを見た陳時中は「行動で教える」ことの大切さに気づいたという。

 そういえば、同じ時代を歩んだ李登輝も「実践躬行」という言葉を好んで使っている。921震災(1999年)で全壊した台中日本人学校を視察したとき、呆然とする校長先生や保護者から「なんとかご支援いただきたい」と頼まれたので「わかりました」と一言だけ答えたところ、先生たちはキョトンとしていた。李登輝曰く「今の人は意味がわからないんだ。日本時代に私たちが教わったのは『わかりました』というのは『必ずやります』という意味なんだ」。事実、李登輝はその日のうちに総統府で台中日本人学校の新しい敷地を探すよう指示し、早い段階での学校再開が実現している。

 陳時中にも父から受け継いだ、厳格さのなかにも愛情あふれる日本精神が流れているように思える。先日、小学生の男の子を持つ母親から訴えがあった。子供が「ピンク色のマスクをして学校へ行くと、からかわれるから付けたくない」と言うのだ。その日の午後、中央流行疫情指揮センターの幹部5人全員がピンク色のマスクをして記者会見を開いた。「命を守るのに色は関係ないよ」という言葉とともに「私は小さいころ、ピンクパンサーが大好きだったんだ。ピンクはいい色だよ」と呼びかけた。これに台湾社会がまたたく間に呼応し、フェイスブック上では多くの企業や個人がプロフィール画像をピンク色に変えて陳時中の呼びかけを支持した。こうした一体感を生み出しているのは、感染拡大防止に成功している台湾だからこそだが、結果だけでなく「過程」を重んじる父の教えを守る陳時中の存在が大きいことは間違いないだろう。

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早川友久(はやかわ・ともひさ)1977年(昭和52年)、栃木県足利市生まれ。早稲田大学人間科学部卒業後、台湾総統府国策顧問だった金美齢氏の秘書に就任。2008年、台湾大学法律系(法学部)へ留学。台湾大学在学中に3度の李登輝訪日団スタッフとしてメディア対応や撮影スタッフを担当。2012年12月、李登輝元総統の指名により李登輝総統事務所の秘書に就任。台湾・台北市在住。共著に『誇りあれ、日本よ─李登輝・沖縄訪問全記録』『日本人、台湾を拓く。』など。

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