11月1日早朝、ニーチェ研究などの文学者にして評論家、思想家として広く知られた西尾幹二(にしお・かんじ)氏が老衰のため、東京都内の病院で亡くなられた。
享年89。
西尾氏は文壇や論壇、アカデミズムなどで活躍する一方、『教科書が教えない歴史』の藤岡信勝・東大教授と出会ってから教科書問題にも深い関心を抱き、1997年(平成9年)1月に藤岡氏や坂本多加雄・学習院大学教授、高橋史朗・明星大学教授などと「新しい歴史教科書をつくる会」を設立し、初代会長に選任されている。
日本李登輝友の会との関係は皆無に近かった。
しかし、西尾氏は一時期、台湾へ大きな関心を寄せたことがあった。
李登輝氏が総統を退任した2000年のころだったろうか、名著『台湾─四百年の歴史と展望』の著者で李登輝総統のアドバイザー、しかも台湾独立運動に携わっていた伊藤潔氏(杏林大学教授、台湾名・劉明修)が西尾氏からの依頼で台湾を案内したことがあった。
西尾氏はこの訪台見聞記を、月刊「正論」誌に「わたしの台湾紀行─台湾を『親日』と決め込む危うさ」と題して発表した。
確か続編も発表したように覚えている。
台湾に中国と同じ反日的土壌があるという西尾氏の指摘は至極まっとうなもので、今に驚くことではないが、司馬遼太郎の『台湾紀行』から5、6年しか経ていない時期の指摘であることを思うと、その眼光の鋭さに改めて驚かされる。
司馬氏の『台湾紀行』に登場するのは、李登輝総統をはじめ蔡焜燦氏など親日と言われる人がほとんどで、当時、『台湾紀行』に異を唱えるつもりもあり、西尾氏は「わたしの台湾紀行」と題したのだろうと思ったことを覚えている。
編集子自身は、西尾氏が『国民の歴史』を出版直後、『国民の歴史』のPR冊子作成で「新しい歴史教科書をつくる会」と関わるようになり、後に西尾氏からのお誘いで事務局に入り、会報『史』の編集をお手伝いした。
一方で、日本李登輝友の会がすでに設立されていたため「つくる会」を辞めたが、事務所を辞す日、西尾氏と当時の事務局長だった宮崎正治氏のお二人に送別会を開いていただいた。
事務所近くの小さな居酒屋だった。
西尾氏は、瞬間湯沸し器のような短気な面や論争を仕掛ける攻撃的な面もあったが、こういう面倒見のよい、情深い面もあわせ持っていた。
訃報を知り、真っ先に浮かんだのは居酒屋で静かに熱燗を酌み交わした送別会の光景だった。
これまでのご教導に深甚の謝意を表し、心からご冥福をお祈り申し上げます。
評論家の西尾幹二氏が死去 「自虐史観」是正に尽力、ニーチェ研究の第一人者【産経新聞:2024年11月1日】https://www.sankei.com/article/20241101-QUP77L4W6VKTPNUWTJNU4LQL2E/
産経新聞「正論」メンバーで評論家の西尾幹二(にしお・かんじ)氏が1日、老衰のため死去した。
89歳。
葬儀・告別式は家族葬で執り行う。
後日、お別れの会を開く予定。
東京都生まれ。
東京大文学部を卒業後、同大大学院修士課程修了。
静岡大講師などを経て、昭和50年に電気通信大教授に就任した。
ニーチェやショーペンハウアーといった19世紀ドイツ思想史研究の第一人者としても知られた。
作家の三島由紀夫らとも親交を深め、文芸評論家として文壇にも活動の幅を広げた。
先の大戦で日本とドイツの戦争責任を同一視する論調を批判し、戦後補償などについて保守の立場から論陣を張った。
戦勝国が一方的に敗戦国を裁いたとの認識の下に東京裁判の不当性を訴え続けた。
平成6年に第10回正論大賞を受賞した。
近現代史を中心に日本をことさら悪く描く「自虐史観」の是正にも力を注いだ。
平成9年には、教科書の正常化を目指して「新しい歴史教科書をつくる会」を結成し、初代会長に就任。
子供たちが自信や誇りを持てる歴史記述は多くの有識者や財界人らに支持された。
つくる会会長退任後も産経新聞「正論」欄に執筆するなど言論活動を続けた。
27年には瑞宝中綬章を受章。
著書に「ヨーロッパ像の転換」「異なる悲劇 日本とドイツ」「国民の歴史」など。
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