「日中」国交正常化50年は「日本・台湾」関係強化の50年でもある  小笠原 欣幸

【日経ビジネス:2022年9月27日】https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00023/092100349/

 50年前の1972年9月、日本は中国大陸を統治する中華人民共和国と国交を樹立し、台湾を統治する中華民国との国交を断絶した。それから50年、日台関係は大きく発展した。双方の交流は、貿易の量であれ、人の往来数であれ、国交があった時代より断交後の方がはるかに活発になった。

 中国は台湾を国際的に孤立させることで、台湾が中国との統一に応じるしかなくなることを期待していた。しかし、それはまったく外れた。この50年間、台湾は国際政治の片隅に押し込まれながらも方向を見失わず、経済を発展させ、民主化を進め、多文化社会を志向し、存在感を高めてきた。いま台湾社会に中国と統一したいという機運はない。

 中国の習近平(シー・ジンピン)国家主席は台湾統一を「中国の夢」と位置づけ、台湾に対する軍事的威嚇を強めている。日本は「台湾海峡の平和と安定」を強く訴え、米国に同調し有事への備えを始めている。日中関係はかつてないほど困難な状況にある。平和友好条約を結んでいながら、弾道ミサイルが日本の排他的経済水域(EEZ)に着弾する。他方、国交がない日台関係はかつてないほど良好な状況にある。

 とはいえ、日台関係も最初からよかったわけではない。断交後の70年代、80年代は冷めた状態が続いていた。90年代に台湾が民主化し、日中関係が複雑化したことで、日台関係は転機を迎えた。そして2010年代に大きく発展し、相互の好感度が高い現在の状態に至った。

 日台関係を概観する最良の参考書は、川島真・清水麗・松田康博・楊永明が著わした『日台関係史1945-2020増補版』である。日本と中華民国との日華関係、日本と台湾との日台関係がよく整理されている。そして「72年体制」になってからも、日台双方で、政府レベルから経済界、一般社会まで含め多くのアクターの動きで日台関係が築かれてきたことが分かる。

 本稿では、断交後の50年を振り返って日台関係の発展に大きな影響を与えた出来事を3つ選びその意義を論じたい。その3つとは、(1)相互ビザ免除(日本側2005年)、(2)東日本大震災(2011年)、(3)日台漁業協定(2013年)である。

◆女子旅でも修学旅行でも台湾人気

 日本政府は、2005年9月、台湾人観光客がビザを申請しないで90日間日本に滞在できるビザ免除の措置を開始した。台湾は早い段階の1994年から日本人観光客に対し5日間のビザ免除を開始(のちに3カ月に拡大)していたので、2005年に相互ビザ免除が実現した。

 その後、11年に日台で締結された「オープンスカイ協定」により航空路線設定の自由度が増し、日本の地方空港にも台湾便が開設され、新規の格安航空会社(LCC)が参入し航空券の料金が大きく低下した。こうした措置が双方の旅行者数拡大の起爆剤になり、特に台湾人の日本への旅行者数が大幅に増加した(図)。

 10年代、台湾で日本への個人旅行ブームが起こり、台湾人旅行者は新たな日本の魅力を求めて団体客が行かない日本の田舎を旅するようになった。そして行く先々での写真や体験をSNS(交流サイト)に投稿し、それがまた新たな旅行の意欲を引き出した。

 新型コロナウイルス禍でブレーキがかかる前の19年、日本から台湾への旅行者は217万人、台湾から日本への旅行者は489万人に達した。台湾の人口が約2300万人であるから、台湾人の日本旅行の密度は非常に高い。台湾にとっても日本人旅行者は中国人旅行者に次ぐ数で、存在感は大きい。

 日本人にとって台湾は、近くて手軽な海外旅行先として人気を集めている。「美食、お茶、占いといった女子旅イメージ」も醸成され、また、高校生の海外修学旅行先としても台湾が第1位となっている(『台湾を知るための72章』赤松美和子・若松大祐編著)。相互ビザ免除は、日台の地方自治体交流や諸団体の交流も後押しした。

◆「ビザ免除」は「現状維持」の支え

 ビザ免除はグローバルな潮流であるから特筆に値しないという意見があるかもしれない。しかし、多くの国が台湾と国交がないにもかかわらず台湾人旅行者にビザ免除の待遇を与えたことは興味深い。仮に日本が中国に忖度(そんたく)をして、台湾との人の往来を規制していたらどうなっていたであろうか。日台関係は今とは異なったものになっていたであろう。

 日本は1990年代まで政府交流は規制していたが民間交流についてはまったくオープンであったし、経済関係の拡大は後押ししていた。2000年代以降は少しずつであるが「72年体制」の枠で柔軟な対応が見られるようになった。例えば、総統を退任した李登輝氏への訪日ビザの発給は中国の横やりがあり何度も政治問題化したが、台湾人旅行者へのビザ免除の措置により李登輝訪日問題にも終止符が打たれた。

 国際的に孤立させられている台湾にとって、日本との交流は大きな意味を持った。外交関係が断たれても経済や市民レベルの交流は維持され、しかも年々拡大したことで、台湾は次第に「やっていける」という自信を持つようになったのである。ビザ免除はさらにその自信に寄与した。台湾人が諸外国の国民と同じようにビザ免除の待遇を受けて自由に日本を旅行していること自体が、中国の統一圧力が強まる中での「現状維持」の支えとなったのである。

 また、台湾から見て、日本人との交流は安心感がある。戦後の日本社会は国家意識が比較的薄く、日本の国家利益のためにどうこうしようと考えて台湾と交流する日本人は少ない。ところが中国は違う。台湾との交流にかかわる中国の様々な行為には、統一を進めるのに有利かどうかの判断がつきまとう。中国との付き合いの中でだんだん疲れてくる台湾人は少なくない。他方、日台の間には、旅行を通じて「居心地のよさ」を感じ、それが相互の好感度につながるという循環がある。

◆震災への義援金、お年寄りは1月分の年金、小学生は小遣いから10元

 日本と台湾は地理的に地震多発地帯に位置し、歴史的に何回もの大地震を経験してきた。

 1999年9月21日、台湾中部を震源とする大地震が発生した。当時、筆者は在外研究で台北に1年滞在中であった。台北は震源から離れていたものの強い揺れで電気、ガス、水道が止まった。インターネットは使えたがパソコンのバッテリーが切れて使えなくなり、一時的であるが情報源はラジオだけになった。余震も続き不安感が増していた。

 そのとき、「日本からの救援隊が台北に到着し捜索活動を開始した」というニュースがラジオで繰り返し伝えられ、それが筆者にとって気持ちを前向きにするメッセージとなった。地震の発生が深夜の1時47分、その日の夕方には日本の国際緊急援助隊が到着し、台北で捜索活動を開始。この非常に迅速な行動は台湾の人々を驚かせ、深い印象を与えた。

 2011年3月11日、東北沖を震源とする東日本大震災が発生した。その被害の映像は台湾でも強い衝撃を与え、台湾各地で多くの人が日本を心配し、義援金を寄付した。当時、馬英九総統もテレビの日本応援チャリティー番組に出演し義援金を呼びかけた。当時の台湾紙を振り返ると、まさに老若男女問わず募金活動に参加した様子が報じられている。1カ月分の年金を寄付したお年寄り、小遣いから10元を寄付した小学生、1杯50元のチャリティーコーヒー、子供の絵画のチャリティーオークションなど──。そうした善意の総額が約200億円の義援金となった。

 台湾からは、義援金だけではなく大量の支援物資も届けられた。そしていくつもの台湾の支援団体が被災地に入り息の長い復興支援を続けた。仙台の若者300人が台南市のホームステイに招待されたこともあった。

 台湾から物心両面のサポートがあったことは当時の日本メディアで報じられたが、筆者の観察では、日本社会はすぐにはピンとこなかった。だが、時間がたつにつれいろいろなルートで広まり、多くの日本人の心の中に台湾への感謝の気持ちが伝わっていったようだ。(後編に続く)

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小笠原欣幸(おがさわら・よしゆき)東京外国語大学大学院総合国際学研究院教授専門は台湾政治、中台関係。1981年、一橋大学社会学部卒業。1986年、同大学大学院社会学研究科博士課程修了(社会学博士)。東京外国語大学の専任講師、助教授を経て、2020年から現職。この間に、英シェフィールド大学や台湾国立政治大学で客員研究員を歴任。主な著書に「中国の対台湾政策の展開─江沢民から胡錦濤へ」(『膨張する中国の対外関係』に収録)、『台湾総統選挙』など。

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