)「太平洋の女王」を救え 基隆築港部長・吉村善臣の奮闘  喜多 由浩(産経新聞編集委員)

)「太平洋の女王」を救え 基隆築港部長・吉村善臣の奮闘  喜多 由浩(産経新聞編集委員)

【産経新聞「台湾日本人物語 統治時代の真実」:2021年3月31日】https://special.sankei.com/a/column/article/20210331/0002.html

 日本郵船の豪華客船「浅間丸」(約1万7千総トン)は昭和4(1929)年竣工(しゅんこう)、欧米勢が優位に立っていたアジアと米西海岸間を結ぶ太平洋横断航路に投入される。横浜−ホノルル−サンフランシスコを12日間あまりで結び、優雅な容姿から、「太平洋の女王」と呼ばれた。

 その設備と性能は欧米の豪華客船に勝るとも劣らない。全長178メートル、最大速力20・71ノット。旅客定員は1等の239人をはじめ、計839人。1等公室は、英クラシック調でデザインされ、船内には、ダイニングルーム、映画室、プール、ジム、カードルームなどのほか、老舗(しにせ)百貨店の出店まで設けられていた。

 15年から18年まで浅間丸船長を務めた藤田徹(とおる)が家族に宛(あ)てた手紙が『船長 藤田徹』に載っている。《ホノルル港を出航してから…北米桑港(サンフランシスコ)に向かって十八節(ノット)の快速力で太平洋を横断して居(い)ます。晩餐(ディナー)がすんで、御(お)客さんは甲板に出て…南十字星(サザンクロス)を眺めたり…長い遊歩甲板(プロムナード)を散策したり…》と船上の雰囲気が伝わってくる。浅間丸には、世界的ソプラノ歌手の三浦環(たまき)や1932年のロサンゼルス五輪・馬術で金メダルを獲得し、硫黄島の戦い(昭和20年3月)で戦死した西竹一、ヘレン・ケラーも乗った。

 『日本商船隊戦時遭難史』によれば、12年の太平洋横断航路は、参入19社中7社を日本が占め、航路数、使用船数、使用船総トン数で欧米勢を抑えて、いずれもトップ。世界の船舶数で日本船が占める割合も、大正3年・3・8%→昭和14年・8・1%へと急増し、“海運王国ニッポン”の名を高らしめた。

 だが、戦争が浅間丸の運命を決定的に変えてしまう。対英米戦の足音が近づいていた昭和16年8月、アメリカへ向けて航行中の浅間丸は、日本政府の指令によって東太平洋上でUターン。これが太平洋航路で浅間丸最後の航海となった。

 開戦後は、互いの外交官や居留民を第三国で交換する日米交換船(17年)や海軍徴用の輸送船として兵員や物資を積み、日本の生命線である南方との往復に駆り出されることになる。

 そして、戦局の悪化とともに、制海権は次第に米軍に奪われ、日本の輸送船は米潜水艦などから狙い撃ちに遭う。常に死と隣り合わせの航海となった。

◆史上稀な難作業

「米潜水艦から魚雷攻撃を受け、辛くも最初の3本はかわしたものの、1本が左舷船首に命中、大損害を受けた。(略)辛うじて航海に耐え得たので急遽(きゅうきょ)、基隆港に避難入港してきた」

 “浅間丸雷撃さる”の急報を聞いて駆け付けた台湾総督府の基隆港務局築港部長、吉村善臣(よしおみ)(1902〜95年)に対し、浅間丸の阿川亮三郎船長は、こう状況を説明したという。

 19年2月23日午前3時ごろ、錫(すず)やタングステンなどを満載した浅間丸はシンガポールからタンカーや護衛艦とともに船団を組んで台湾東岸・蘇澳(すおう)沖を航行中、米潜水艦の魚雷攻撃を受けた。浅間丸は、船首を深く海中に下げた姿のまま、よろめくようにして基隆港の外港へたどりつく。

 海軍嘱託の船舶救難隊長を兼務していた吉村が浅間丸救難作業の総指揮を執(と)ることになった。だが、空襲と灯火管制下、海中で浅間丸ほどの巨船を修理する作業が容易なわけがない。吉村が遺(のこ)した手記『浅間丸救難作業の実績』(昭和59年)にこうある。《船首の吃水(きっすい)が14メートルとなる大損害を受けたのを海上に於(お)いて応急修理をなし、排水して吃水9メートルとなるまで浮上せしむることは、サルベージ史上稀(まれ)に見る難作業…》

 吉村が最も恐れたのは、浅間丸が仮泊している場所(外港)で擱座(かくざ)してしまうことだった。これほどの巨船が動けなくなると基隆港の機能全体がマヒしてしまいかねない。

 吉村らが立てたプランは粘土セメント工法によって破損隔壁を補強し、応急防水壁を構築→排水ポンプで船倉内にたまった海水をくみ出す──というものだ。このうち、防水壁の構築は、約1カ月の突貫作業で完了したものの、排水作業で難題に直面する。それに必要な強力直流モーターが当時の台湾にはなかったのだ。

 吉村らは同船の航海用電動モーターの転用という“ウルトラC”を思いつく。浅間丸側は「船の駆動に影響しかねない」として反対したが、それを押し切って決断。排水作業は数十時間かけ、予定の吃水まで浮上させることに成功した。

 浅間丸は基隆内港ドックへ回航されて本格的な修理を実施。被雷から約2カ月後に神戸へ向け出港した。吉村は手記をこう締めくくっている。《(後に内地の)海軍工廠(こうしょう)の幹部は…これだけの処置ができたとは…技術以上のものがあると絶賛してくれた…》と。

◆親子3代の台湾

 吉村は、旧制佐賀高から九州帝大工学部卒。大正15年に台湾総督府へ奉職して以来、主に港湾土木の分野で活躍。終戦時には基隆港務局長の要職にあった。

 台湾とのかかわりは善臣の父、秀臣(ひでおみ)に遡(さかのぼ)る。薬剤師だった秀臣は日本統治草創期の台湾へ渡り、台湾総督府花蓮(かれん)港医院勤務や基隆医院では薬局長を務めた。

 善臣の長男、公男(きみお)もまた昭和4年に台北で生まれている。17年に旧制基隆中へ入学したものの、3年時に警備召集で陸軍へ。さらに、海軍甲種飛行予科練に合格して新竹基地へ配属される。まだ14歳だった。

 平成16年、74歳で急死した公男の遺志を継いで一族の評伝『麗しの島で』をまとめた公男の長男、伸一(55)は父が同書を著した意味をプロローグに書いた。《かつての台湾の様子を、そこで暮らし、共に戦った経験を持つ者の中でももっとも若い世代である者が書き残しておく…》。吉村家は3代にわたって台湾の衛生や港湾、あるいは守備に関わったのである。(*編集部註)

 善臣らが救った浅間丸は19年11月1日、フィリピンから台湾・高雄へ向かう東沙(とうさ)諸島沖で、再び米潜水艦の攻撃を受け、今度は助からなかった(沈没)。

 『日本商船隊…』書によれば、戦時中に喪失した日本商船船腹数は、戦争海難によるものが計2394隻、戦死・戦病死・行方不明となった船員は、公表分だけで3万人以上である。

=敬称略(編集委員 喜多由浩)=次回は4月14日掲載予定

*編集部註:吉村伸一著『麗しの島で─十四歳予科練少年飛行兵の台湾青春記』(元就出版社、2004年12月刊)。著 者の吉村伸一氏はJR東海勤務後、傘下会社時代の2014年9月、李登輝元総統のご来日に深く関わり、大阪・東京間の 新幹線乗車などでご尽力いただいた。また、李登輝元総統の著書『李登輝より日本へ 贈る言葉』(ウェッジ、 2014年6月刊)を企画し出版。4代にわたって台湾と深く関係している。

※この記事はメルマガ「日台共栄」のバックナンバーです。

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