夫婦で守った「山の駐在所」 喜多 由浩(産経新聞文化部編集委員)

夫婦で守った「山の駐在所」 喜多 由浩(産経新聞文化部編集委員)

【台湾日本人物語 統治時代の真実:2021年2月3日】https://special.sankei.com/a/column/article/20210203/0002.html

 大正期、水不足に悩む「●頭★(かんとうせき)(現雲林(うんりん)県古坑(ここう)郷)」の住民のために簡易水道を引き「いのちの水の恩人」と呼ばれた警察官、瀧野平四郎(たきの・へいしろう)(1884〜1950年)。手記『思い出の記』を読めば、日本統治時代、台湾の警察官業務が治安維持にとどまらず、多岐にわたっていたことが分かる。僻地(へきち)に赴任した者ほど、それが顕著だ。

 瀧野は、地元・嘉義庁の依頼で台北周辺で大流行したコレラの防疫業務のため隊長として40人を率いて約1カ月出張したことを書いている。「衛生」は警察が関わる業務のひとつだ。

 ●頭★では、山間部の住民の交通の利便を図るために千尋(せんじん)の谷のような難所に鉄橋を敷設することにも尽力した。さらに、《道路というより石河原》というほど危険な悪路の大改修工事も手掛けた。《街路十数カ所に照明灯がついたので…今では自転車でも自動車でも自由自在である。夜の散歩者もだんだん多くなり、店も繁盛するようになったので町人の喜び方は一通りではない》(『同』から)

 ●頭★がどんな場所だったのか、その記述もある。三菱の林務事務所があり、日本人職員は4、5人。公学校(台湾人児童が通う小学校)の校長も日本人だった。派出所には、日本人の巡査部長と台湾人巡査の2人が勤務している。警部補の瀧野は、他の複数の派出所も含めて監督する立場にあったようだ。

 怖いのはこれからだ。村周辺には多数の毒ヘビが生息しており、山道を歩くときは犬を連れて行く。毒ヘビの気配を犬が察知してワンワンほえるからだ。

 あるとき瀧野は草むらの中でコケむした墓碑が倒れているのを見つける。

 そこには、台湾統治から4年目の明治31年の日付で日本人の陸軍少尉以下26人が戦死した事実が記されていた。土匪(どひ)と呼ばれた抗日武装勢力の掃討作戦に出撃した部隊とみられる。瀧野は墓碑を修復し、丁重に招魂祭を執り行った。

◆トロッコに乗って

 ●頭★までの交通手段としては、「汽車と軽便台車を乗り継いでいく」ことが記されている。

 この軽便台車は、日本統治時代に発達した人力によるトロッコのことだ。鉄道が敷かれていない地域などで網の目のように張り巡らされ、旅客、貨物両方で貴重な「足」として活用された。ピークを迎えたのは昭和の初めである。

 台湾総督府発行の昭和14年版『台湾事情』によれば、《(所謂(いわゆる)トロ若(も)しくは台車)は、本島に於(おい)て最重要なる交通補助機関》と位置づけられており、7年の台車軌道の総延長は1325・7キロ。台車数は5132台。旅客数も4年に約525万人に達した。

 これとは別に、台湾の重要産業である各製糖会社などが敷いた私設鉄道も線路を拡(ひろ)げていた。13年の総延長は計2619キロ、旅客数は約463万人、貨物は約4720トンとなっているから重要性が分かる。

◆教育も担う警察官

 日本統治時代の台湾における警察制度は、明治28(1895)年の統治開始と、ほぼ同時に発足している。警察は、総督府の民政局内務部警保課が主管し、警部70人、巡査700人の体制でスタートした。

 やがて、中央機関として総督府内に警務局が置かれ、各行政単位ごとにある警察組織を監督する制度が整えられてゆく。統治時代の行政区分は変遷があるが、昭和10年度末時点では、州と庁(都道府県に相当)があり、州の下には市と郡が、庁の下には支庁が置かれていた。

 地方では行政区分に応じて、州(警務部)▽庁(警務課)が。市(警察署)▽郡(警察課)が置かれ、警察官が幅広い事務を所管している。支庁の長には幹部警察官が就いた。

 総督府発行の昭和11年版『台湾事情』によれば、全島で警察署などの機関数は計66。派出所1010。駐在所525。配置定員は約1万1300人である。

 先住民が多い地域は当初、総督府殖産局が所管していたが、明治34年以降、順次移管され、警務局が統括。各地に設けられた駐在所に赴任した警察官は“山の巡査”と呼ばれた。

 激しい抗日闘争が続く地域もあり、「霧社事件」(昭和5年)のように日本人、先住民双方に多数の犠牲者を出した大規模な蜂起事件も起きている。

 “山の巡査”に託されたのは、その最前線に立って治安を守ることだけではない。先住民の子供たちが通う「教育所」(警務局所管)では、教師役を務め、国語(日本語)、算術、唱歌などの教科を教えた。裁縫や家事を教えるのは、巡査の妻の担当である。抗日勢力の襲撃やマラリアなどによる生命の危険にさらされながら、住民の安全を守り、生活の利便向上も図る…。言葉も文化も習慣もまったく異なる奥地での苦労は並大抵ではなかったろう。

◆台湾知識層の手紙

 先の『思い出の記』には瀧野夫妻が、わが子同様にかわいがっていた台湾人の台北帝大医学部生が戦後、瀧野の妻、芳子(よし)に宛てた手紙の内容が残されている。

《…小母(おば)さん(芳子)から受けた精神的感化も実に大きなものがあります。何が奇麗(きれい)だと言うて心の美しさよりも美しいものはありません。(略)小母さんが残された足跡、御(ご)感化は永遠に生きてゆく事と信じております》

 ただし、あったのは芳子への感謝の言葉だけではない。日本の統治政策や日本人への憤りも記されていた。

《僕は幼き頃より心から日本人を愛し、よき日本人たらんと欲した。(略)しかし長ずるに従い現実に内地人学生や一般内地人の本島人に対する言動を見るに及んで民族意識が強まるのをどうする事(こと)もできませんでした。それだけに小母さんのご厚情が一層身にしみて感じました》

 台湾人知識層によって戦後、記された率直な心情の吐露であろう。当たり前のことだが、日本人に対して「感謝」もあれば、「反発」もあった。これも統治時代の真実である。

=敬称略(編集委員 喜多由浩)

●=山かんむりに土へんに欠★=圧の土が昔

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