――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港85)

【知道中国 2203回】                       二一・二・念六

――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港85)

 

 素人目で見ても、東華義荘の建つ場所には「蔵風得水」の4文字で象徴される条件が備わっているようだ。

 いま立っている辺りを半分に切った摺り鉢の上端中央とすると、目指す東華義荘は摺り鉢の底に当たる部分に見える。そこに向かって伸びる小道を下って行くと、雨も降っていないのに、林立する墓石の向こうに黒い傘をさした女性が見えた。同行してくれた李さんによれば、「埋葬してから5年が経った棺を?作工(骨拾い業者)に頼んで掘り起こしているところ。黒い傘は棺の蓋を開けた時、死体の目を陽の光から遮るためだ」とのこと。

 当時の香港では?作工は長生店に所属するプロで、死にまつわるあらゆる穢れを忌み嫌う一般の遺族に代って、死体を掘り出し洗骨作業を担っていた。時に「?」とも「?作」とも呼ばれ、宋代の宮廷内に置かれた検屍役人を起源にするらしい。宮廷では具体的にどのような仕事をしていたのか。たしかに、そんなことまで調べる必要はないとは思うが、やはり興味津々である。そこで好奇心に任せて関連する文献に当たってみた。だが、やはり、当然ながら、皆目見当がつかない。

 ところが、どうやら“意志あるところに道あり”の訓えは本当らしい。明代の嘉靖35(1556)年に中国を訪れたドミニコ会士ガスパール・ダ・クルスが書き残した『中国誌』(講談社学術文庫 2002年)のなかで偶然、いや幸運にも?(正確には「?と思われる役人」とすべきだろう)に関する記録に出くわしたのである。

 朱元璋が明朝を創業してから約200年が過ぎ、明朝滅亡まで残すところ100年余となったこの年、クルスは短期間だが中国に滞在し、古くから南方の玄関として知られ、イスラムや西欧世界への窓口として開かれていた広州とその周辺を歩き、当時の社会のありのままの姿を『中国誌』に記している。

そのなかに、クルス自身が「本章は注目に値する一章」と特記した「第20章 死刑を宣告された者たちについて」に次のような記述があったから、もうビックリするしかない。 

――獄中では多くが「あるいは飢えのため、あるいは寒さのため、あるいは例の笞打ちのために」死ぬ。

じつは「獄中で誰かが自殺したり死亡したりすると、中国の規定に従い、これを厠に放りこみ三日間放置する。そこでネズミがこれを食い荒らす。中国には一部に空腹のあまりそのネズミを食らう囚人もいる。前記の三日間が経過すると(役人がやってきて)死体の脚に輪縄をひっかけ、野原のほうへ開けた牢獄の外門までそれを引き摺ってゆ」き、「鉄張り棒で死体の尻を三発きつく殴」る。

やがて「生の兆候は認められず、死んでいることは確かである」と認められた死体は、「ごみ捨て場に投棄」されるのであった――

それにしても糞尿の海に3日間も漬け込まれ、「牢獄の外門まで」「引き摺ってゆ」かれ、「鉄張り棒で」「尻を三発きつく殴」られ、挙句の果てに「ごみ捨て場に投棄」されるというのだから、死体になってしまった囚人とはいえ「死刑を宣告された者たち」の末路は哀れでもあり残酷でもある。これでは全く浮かばれない。

とはいえ、ここまで徹底するのは「いかなる者も死んだふりなどできぬよう」にするため。これを裏返せば「死んだふり」をして生き延びた者もいたということだろうか。凄まじいばかりだ。これも「上に政策、下に対策」ならぬ「下に奇策、上に対策」・・・だろう。

一連の作業を担当する役人の精神的負担は想像を絶するが、さぞや気丈であったに違いない。宋代と明代とでは、官僚制度も役職名も職掌も必ずしも同じではなかっただろうから断定し難いものの、クルスが言及する作業を担当したのが?ではなかったか。《QED》


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