――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港84)
死生観といったような高尚な考えではなく、たんなる物見遊山でもなく、かといって深い探求心でもない。たんに怖いもの見たさに誘われて、ある日、東華義荘を訪ねてみた。
東華義荘は、香港島西部に位置する薄扶林(ポックフーラム)の大口環(サンディーベイ)に在る。九龍側からヴィクトリア湾を挟んで香港島を眺めると、右端辺りが第7代香港総督(1872年~77年)を務めたサー・アーサー・エドワード・ケネディー(漢字表記は「堅尼地」)に因む堅尼地城(ケネディータウン)で、目的地はその裏側辺りになろうか。
香港島を海岸に沿って走る域多利道(ウィクトリア・ロード)を西に進み繁華街を抜けると、やがて道路は「中華基督教墳塲」と名づけられたキリスト教徒のための広大な共同墓地の端を通る。
そこでバスを降りて山を背に立つと、左右に伸びた稜線から海に向かって広がる下りの斜面は見渡す限りが墓石で埋め尽くされ、遥か前方遠くをジャンクが往き来している。山の内懐に抱かれるように墓園が設えられてあり、その先の海面は西日を受けてキラキラと輝き、金波銀波が波打っていた。
墓園の中の小道を歩く。死者の顔写真が焼き付けられた墓石も少なくなく、そんな墓石を目にすると、率直に言って首を傾げたくなる。一瞬ではあるが、頭の中に「悪趣味」の3文字が浮かんでは消える。やはり素直には受け入れ難い佇まいではある。
林立する墓石の表面には実際の生まれ故郷ではなく、一族のルーツである出身地を示す「本貫」の地名が例外なく刻まれている。香港在住者のルーツは多く広東であるだけに、順徳、番禺、肇慶、台山、仏山、宝安、恩平、開平など広東省各地の地名が多い。だが中には中国各地の地名が認められる。ということは、香港は政治から逃れ、混乱を避け、あるいは一攫千金の夢を抱きながら大陸各地からやってきた人々の終着点でもあるようだ。
日本の墓のように墓石に「何々家之墓」と刻まれ、一族一家が同じ墓穴に収められるわけではない。すべてが個人の墓だから、死者の数だけ墓穴を掘り、棺を納め、その上に墓石を建てる。だから当然のように墓の数は多くなるだろう。
儒教倫理を掲げ家族主義を標榜する彼らだが、なぜ墓穴だけは個人別なのか。ふと疑問に思ったが、考えるまでもなさそうだ。そのまま棺を納めるわけだから、家族全員の棺が入るほどの巨大な墓穴を掘らなければならなくなってしまう。一定期間が過ぎた後に棺を掘り出し、骨洗いした後に葬り直す。二次葬に関しては別の機会に譲ることにする。
風水のリクツでは《気》は風や雲や雨となって天地の間を循環し地中を経巡り、万物に生命を与えるという。「蔵風得水」と呼ばれる《気》が多く集まる場所が墓地としては最高適地とされ、形状で言えば山を背にした南向きの土地で、前方を左から右に水が流れている。ここに東と西の風を防ぐ山があるような自然環境がサイコウらしい。
このような環境に葬れば、死者の骨が天地の間を経巡る《気》に感応し子孫が福に恵まれるというのだから、はいそうですかとは素直には信じられない。少なくとも葬儀と墓地に関する限り、どう考えても「同文同種」ではない。いったい誰が、なにゆえに「同文同種」などといった戯言を持ち出したのか。言えるものなら先人に向かって、バカも休み休み願いたかった、と言いたいところだ。
残された息子や娘が父親のために風水の上で適地を選んで葬るということは、周囲に親孝行であることをみせつけると同時に、父親の地位と財産とを受け継いだことを世間に認知させることになる。風水の適地に葬らなかったら、財産を失くすだけではなく、子供は若死にするし、子孫は絶えてしまう。一族にとって万般の幸不幸が墓地とすべき土地選びにかかっているとか。かく考えるなら風水のカラクリは、ゲに空恐ろしいばかり。《QED