――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港32)

【知道中国 2150回】                       二〇・十・念四

――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港32)

 

校長のT先生と共に第一日文を経営していたのは、日本人のY先生とD先生だった。3人に加え日本語を話す数人の中国人が意気投合し、尖沙咀を貫く弥敦道(ネーザン・ロード)から2本ほど奥に入った徳興街に学校を創設したのは1960年代半ば。開校時、先生方は机を前に日本語学習希望者がワンサカと押し寄せると、まさに獲らぬ狸の皮算用。かくして初日の入学希望者は先生方の数より少なかった。

「敗戦まで、上海に東亜同文書院という日本人経営の私立学校があった。一九〇一年(明治三十四年)の創立であるから、敗戦による解散まで五十年近くを閲している。(中略)はじめは私塾のようなものだったが、やがて学校形態を整備し、後に専門学校令による四年生専門学校に昇格し、最後は六年制大学となり、名も東亜同文書院大学と変えた。東亜同文書院、同大学、同専門部の卒業生および解散当時の在校生総数は四千数百名に達する。日本人のほかに、少数ではあるが中国人の学生も収容していた」(竹内好「東亜同文会と東亜同文書院」『日本とアジア』筑摩書房 1995年)

Y先生は37期生として1937(昭和12)年に入学している。ルーツは島根で、大連開港以前に満州を代表する開港場であった営口に生まれた。父親は船長だった。

37期生は全部で114人。昭和12(1937)年4月の入学から程なくして盧溝橋事件が勃発。否応なく、戦争に立ち向かわざるを得なかった世代だ。

戦火は上海に及び校舎は灰燼に帰し、一時は長崎市桜馬の仮校舎での授業となる。上海に戻った後は、江沢民の母校である交通大学を臨時校舎として使い、繰り上げ卒業という変則措置を受けることなく、正規課程を終えた最後の学年として昭和16年3月に卒業している。同期生103人は、そのまま戦時下の社会に飛び込んだ。

日本軍通訳として前線に送られ、重慶(蔣介石)側の放送傍受を命じられたが、学生時代はボクシングに明け暮れたY先生には荷が重い仕事だ。そこで上官に数カ月の猶予を願い出て、その間の猛烈な勉強によって“東亜同文書院卒業生の面目”を果たせた、とか。

103人の若者が敗戦を迎えたのは大連、張家口、内地(海軍省)、ラオカイ(中越国境)、奉天、バンコク、パラオ、サイゴン、マラン(ジャワ島)、上海、杭州、ガダルカナル、済南、桂林、開封、高雄、バンコク、北部仏印、海口(海南島)、広東、済州島、泰緬国境、漢口、徐州、岳麓、パレンバン、ロタ島(中部太平洋)、マニラ、北京、南京、京城、セレベス、汕頭など。ニューブリテン島、テクノパール(ビルマ)、ガダルカナル、ニューギニアなどで戦死した同期生もあった。

37期生にとっての昭和20年8月15日・・・Y先生世代の壮絶な青春が思い浮かぶ。

Y先生がいつから香港に住むようになったのかは不明だ。日頃の先生の話から判断して、敗戦直後ではなく、国共内戦期(1946年~49年)のいずれかの時点で中国人難民として香港入りしたと思われる。香港では中国人として暮らしていたが、フトしたことから周囲に日本人だと知られてしまい、日本への強制送還処分を受ける。満洲営口生まれで戸籍がハッキリしなかったこともあり、国籍復帰には相当に苦労したらしい。やがてアジア大学へ。

某日、講義が終わるのを待っていたかのように教室に現れた長谷川才次社長に懇請され、時事通信特派員として香港へ。数年後、報道方針の違いから同通信を離れ、新亜書院に。

同期生は回想録の一部に「営口生まれ、旅順中学。上海紙業入社。戦後香港の第三勢力運動に参加。帰国して亜細亜大学十年、香港の中文大学で五年間教壇に立つ。香港にアジア学院設立の構想をもって四十五年帰国、各方面を説いたが成らず、香港で夜間日文学院を経営。昭和四十八年二月十日急逝」と綴る。

講義が終わると大学近くの北京料理屋で恒例の昼食・・・栄養補給の絶好機だった。《QED》


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