――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港90)

【知道中国 2208回】                       二一・三・初八

――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港90)

 

 中島健蔵は元来がフランス文学者・文芸評論家ではあるが、1950年代末期辺りから文革期まで「日中友好運動活動家」としての活動が主だったような。日中友好運動における日本側仕切り役とでもいったところではなかったか。文革期の国慶節の記録映画に映った、天安門楼上で海外からの招待客と共に“並び大名然”とした立ち姿が印象に残る。

この時、中島の隣に『中国の赤い星』のエドガー・スノー夫妻が映っていた。スノー夫妻を招いたのが毛沢東であり、それが1972年2月のニクソン訪中受け入れのサインだったらしいから、中島は国際政治の生々しい現場に居合わせたことになる。

中島は、「一九五七年の一一月六日夜、自分としてはなんの屈託もなく、羽田空港から日航機で出発し」、香港に向う。香港から中国入りする目的は、当時の親中派文化人――かの「進歩的文化人」たち――の取り纏め役として日中文化協定を結ぶことだった。

 この時の中国旅行の顛末を綴った『点描・新しい中国 一九五七年晩秋』(六興出版部 昭和33年)を読んでいると、突然、「ゴールデン・ゲート・ホテル」が登場し驚いた。

「はじめ、香港で一夜を明かしてから国境にはいる予定だっただったのだが、朝七時半に九竜の空港におりて、ゴールデン・ゲート・ホテルの一室に落ちつくひまもなく、北京から“今日のうちに国境を越えて、入国してくれ”と、電話連絡があったから、と中国旅行社から電話がかかって来た」と記されている。

前後の事情から判断して、ここに見える「ゴールデン・ゲート・ホテル」が金門酒店であり、あらかじめ中国側から指定された宿舎――妄想を逞しくするなら、中国政府が香港に設けた対日工作の最前線の1つ――と考えて強ち間違いはなさそうだ。

 中島に先立つこと2年の1955年4月、第6回芥川賞受賞者で『糞尿譚』『麦と兵隊』『花と龍』などで知られる火野葦平は、ニューデリーでのアジア諸国会議からの帰路に中国政府からの招待を受けて中国入りすべく、香港に降り立った。

この時の中国旅行で戦時中の自らの体験を苦悩のなかで吐き出す一方、同行した進歩的文化人たちのノー天気・無反省・偽善ぶりを赤裸々に綴った『赤い国の旅人』(朝日新聞社 昭和30年)には、香港で宿泊したホテルについて、「いったいこの新楽大酒店(SHAMROCK HOTEL)は九竜の目抜き通りにあるので、一晩中、自動車やトラックが通い、暴風のような音を立てるためおちおち眠れない」と記している。

 火野が記した「九竜の目抜き通り」は弥敦道(ネーザン・ロード)で、じつは新楽大酒店は金門酒店から歩いて2分ほど。香港到着当初、映画を見て中国語を身に着けようと通った倫敦戯院(ロンドン・シアター)の並びにあった。

中国政府から招待された火野ら一行の28人を前に、団長は「われわれは香港滞在中からすでに中国政府から招待になっている。先方はそれだけ鄭重にやってくれているのであるから、こちらも十分にそれにこたえたい」と訓示している。それだけではない、一行は中国滞在中の小遣い銭の類までも渡されているのだ。

金門酒店、新楽大酒店、それにヒョットして富都大酒店まで、“そういう施設”だったようにも思えてくる。

もう少し付け加えるなら、第一日文で教えて半年ほどが過ぎた頃、高級班学生の卒業式があり、終了後の謝恩会が開かれたのが新楽大酒店だった。記念写真撮影シーンを思い出すと、前列に並んだ7人の先生のうち6人はすでに鬼籍入り。つまり生き残っているのは小生のみ。8人ほどの卒業生はニューヨーク、シカゴ、ヴァンクーバー、メルボルン、ロンドン、台北、上海、それに香港――香港の小さな日本語学校の卒業生が歩んだ半世紀だ。

昨秋、香港での久々の同窓会を願ったが、“苦難の香港”がそれを許さなかった。《QED》


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