――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港204)

【知道中国 2322回】                       二二・一・念九

――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港204)

曹操の逃避行にかかわる物語は千変万化し、やがて正史が記した姿とは趣の異なった佇まいの曹操として「捉放曹」の舞台に立ち現れる。このような変化は、なぜ起こるのか。おそらく創り手である戯作者や役者は自分の思い描いた性格を備えた曹操を創造し、舞台に送り出すのであろう。そんな曹操に観客は熱狂する。かくて正史が描き出す曹操ではなく、舞台の上に躍動する曹操こそを、民衆は“真の曹操”として受け止めるのではないか。

民衆は王朝公認の正史なんぞ知らない。であればこそ舞台の上に描き出される英雄群像が織りなす人間模様が、民衆にとっての歴史となる。そこら辺りに、娯楽は民衆教育の手段であるという芝居の持つ効用が秘められているように思える。

極めて生硬で回りくどい話になってしまったが、要するに実際は極めて優れた軍略家・政治家・文学者とされるものの、やはり物語や芝居――民衆にとっての中国史――では曹操は飽くまでも「大悪人」として性格づけられている、ということだ。この場合の「悪」はワルではなくツヨイを意味するが、では、なぜ民衆にとっての中国史の中で曹操は「悪」の大英雄として振る舞わねばならないのか。史書などが伝える歴史上の人物や出来事が京劇の舞台に移された末に、いったい、どのように変貌を遂げているのか。

――こんな視点から京劇を見直してみたいと思うが、それには稿を改めるしかなさそうだ。

それにしても、である。多種多様な楽しみの“タネ”をもたらしてくれた第六劇場、それに春秋戯劇学校に半世紀の時を超えて、改めて感謝するばかりである。

さて京劇に対する些か、いや過度の偏愛ぶりに我ながら呆れ返るしかないのだが、こ辺で京劇を切り上げ軌道修正し、再び香港での日々に戻ることにしたい。

第六劇場通いが順調に続いている一方で、我が生活は突如として異常事態に見舞われてしまった。大家が突然に「家賃に関し価格調整をしたい」と言い出したのだ。もちろん家賃を低い方に「調整」するわけがない。高額の方に「調整」、つまり値上げである。それにしても直截に「値上げ」と言わず、婉曲に「調整」とは言い得て妙だ。流石に「文字の民」ではある。だが、そう言って感心ばかりしてもいられない。それというのも予想外に大幅な「調整」が突きつけられたからである。

「おいおい突然に、余りにも理不尽じゃないか。アンタのトイレ長時間占拠に文句を言うこともなく付き合ったではないか」と抗議の一つもしたいところだったが、冷静に考えれば、一般の家賃相場に較べて安かったことも事実だった。加えて大家には大家の事情があったのだろう。大家は貧乏留学生を追い出し、新しい借り手を探そう。いや、すでに次の借り手の見当は付いていたのかもしれない。いや、きっとそうだ。そうに違いない。

だが、だからと言って大家の言いなりになったら、粒々辛苦して築き上げた京劇中心の快適な生活が完全に狂ってしまうことになる。ここは思案のしどころだ。

快適な居住環境か、それとも第六劇場漬けの生活か。

その時の思いを幕末・維新期の梟雄で知られる雲井龍男が詠じたとされる「棄児行」(「斯の身飢ゆれば 斯の児育たず 斯の児棄てざれば 斯の身飢ゆ 捨つるが是か 捨てざるが非か 人間の恩愛 斯の心に迷う」)に託すなら、さながら「斯の身飢ゆれば 京劇育たず 京劇棄てざれば 斯の身飢ゆ 捨つるが是か 捨てざるが非か」だろう。相当に芝居がかってはいるが、そこで敢えて「斯の身飢ゆ」の道を選ぶことにした。

そうと決まったら、なによりも新しい下宿だ。だが当時の家賃相場から考えるなら、九龍の街中で窩打老道の冠華園で味わっていたような快適な生活環境を確保することは至難だ。そこで思い切って繁華な九龍を離れ、田園豊かな新界に転居することにした。《QED》


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