――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港205)

【知道中国 2323回】                       二二・一・卅一

――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港205)

ほどなく、九広鉄路の沙田駅から歩いて10分ほどの所に格好の物件――住所は香港新界沙田下禾■(山の下に大、大の中に車を記す)9号景園――が見つかった。

屋根は切妻式で、レンガを積み上げた壁に穿たれた窓は極端に少ない。家の横幅は20メートルほどで、奥行きは10メートルほどだっただろうか。新界の農村集落で普通に見かける典型的な民家で、左右に分けられていた。私が住むことになったのは向かって右半分の右端の角部屋であり、左半分に住む家族とは、挨拶する程度の付き合いだった。

長い間使われていなかったらしく、小汚いうえに部屋には悪臭が漂っていた。だがステキな庭が気に入った。当時、香港にどれほどの邦人が住んでいたかは不明だが、庭付き生活を満喫できたのは須磨弥吉郎香港総領事を除いたら、おそらく私くらいではなかったか。

大幅に下がった家賃分を第六劇場通いに回すことが出来るわけだが、距離的に遠くなっただけに往復に大幅に時間を取られてしまう。だが、そこは「棄児行」である。京劇のために敢えて「斯の身飢ゆ」の道を選んだワケだから、四の五の泣き言を口にはできまい。

引っ越し当日は日曜日。佐敦道渡船街から窩打老道への前回の引っ越しと同じで李さん、黄さん、梁さんがトラックを調達してきて手伝ってくれた。寝具、高さ1メートルほどの折りたたみ式木製本立て、3段ほどの小引き出し、京劇レコード観賞用の小型ステレオ、カセット、それになによりの宝であった大量の京劇レコードを積み込んで景園に向かった。

数少ないがゆえに貴重な家財道具を部屋に運び入れた後、沙田駅近くのレストランで冷えたビール――多分、「生力(サンミゲル)」だったろう――の栓を抜いて、先ずは乾杯。今回も李さんが払いを済ませてくれて解散。みんなはトラックで九龍に帰っていった。

景園に戻り1人になって改めて部屋の中を見回す。

部屋の真ん中には背の高いベッドが1つ。4本の足にはゴロが付いていて移動可能だ。おそらく病院で使われていたものだろう。鉄枠に塗られた白いペンキはそこここで剥がれ、ヤケにサビが目立つ。ベッドの左は隣の部屋との壁で、その壁を背に頑丈そうな4段ほどの横幅の広いタンスが置かれている。長いこと使われていなかったらしく、ガタピシャと音を立てて簡単には引き出せない。

天井がないから、見上げると瓦の裏側が丸見えだ。瓦を支える梁の1本から土色に薄汚れた蚊帳が垂れ下がっている。いつ取り付けたのか解らないが、長い間使っていなかったのだろう。蚊帳には蜘蛛の巣が絡みつき、湿気を含んで不気味だ。

ベッドの頭の先に窓があり、窓の外側は集落の中心部にある廟に通じる石畳の路地だった。窓は縦横1メートルほどの観音開きで部屋側がガラス窓、中間が鉄格子、外側が鉄板の三重構造。湿気が多いのに、なぜ、こんなに厳重にするのか。もちろん泥棒対策である。ベッドに向かって右手の窓は庭側を向いていて少し大きいが、構造は同じく三重だ。ベッドの足の方の部屋の角には、戸の開かない大型の洋服ダンスがデーンと置かれていた。

1週間前から大量の芳香剤を置いていたのに悪臭が消えず、憂鬱さは増す。さて、いつまでこの部屋に住むことになるのか。考えるほどに「斯の身飢ゆ」の感慨は募るばかり。

錆び付いた鉄格子の窓の向こうに目を転ずると、庭の端には大きな楊桃(ジャック・フルーツ)の木が1本。黄色く熟れた星形の実を、枝もたわわに稔らせていた。

その時、ドアがトントンと叩かれた。開けてみると、上着もズボンも絹製で白髪交じりのおかっぱ頭の60歳代後半と思しきバーさんだ。自分を指差し「日本仔、?好、我係曽妹(ヤッポンチャイ、ネイ・ホー、ンゴーハイツォンムイ)」と続けた。敢えて訳すなら「おい、日本アンちゃん、やあ、どうも。ツォンムイさんですよ」と言ったところか。

おいバーさん、藪から棒にトボケているんじゃないよ・・・些かムカついた。《QED》


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