――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港203)
ここで第六劇場の舞台に戻り、「捉放曹」を考えてみたい。
「捉放曹」の種本は小説の『三国演義』であり、その『三国演義』の大本は正史『三国志』となる。『三国演義』の作者は14世紀の羅貫中とされるが、宋代には「説三分(三国語り)」と呼ばれる三国志を専門に語る「説話人(講談師)」が生まれている。彼らは正史を話の大筋にして、様々な民間説話なんぞを題材に切り貼りして“見てきたようなウソ”を仕立て上げていった。かくして「説三分」を劇的に再構成し、元代至治年間(1321~23年)に絵入り講談本として刊行されたのが『全相三国志平話』とされる。
これを要するに、三国時代(180年前後から280年前後)に起きた出来事を陳寿が彼の拠って立つ歴史観に基づいて取捨選択して正史『三国志』として纏め上げ、正史から様々な説話が派生し、説話が集大成されて『全相三国志平話』となり、さらに時を経て小説『三国演義』となり、その『三国演義』を種本にして名も知れない戯作者や役者によって京劇「捉放曹」が創作されて舞台で演じられることとなった。
いわば三国時代の出来事から「捉放曹」までに1700年ほどの時間が過ぎていることになる。この間、当然のようにストーリーは変化する。
たとえば正史『三国志』の「巻一 魏書一 武帝操」では、董卓の誘いを断ったことで危機感を抱いた曹操は偽名を名乗って逃亡した、と極めて簡潔な記述で終わっている。
ところが、この部分の注記では「魏書に曰く」として、「曹操は数騎を従えて故郷に逃げ帰る途中で呂伯奢を訪ねたが不在だった。呂の息子たちは曹操の馬などを奪おうとしたので、曹操は『刀を手にし撃ちて数人を殺す』」のである。
別の注記では「世語に曰く」として、呂伯奢を訪ねたが呂は不在だったが、5人の息子は揃って賓客を迎える支度をした。董卓の命令に背いたことから曹操は疑心暗鬼になり、「剣を手に、夜、八人を殺して去る」と記す。また別に「孫盛の雑記に曰く」として、呂伯奢の家で耳にした食器の音を自分を殺そうとしていると思い込んだ曹操は、夜陰に乗じて呂の家の者を殺した。そして去り際に、凄まじい形相で「俺がヒトに背こうが、ヒトを俺には背かせない」と口にした、と記す。
こう見てくると、正史『三国志』「巻一 魏書一 武帝操」は極めて無機質な記述ではあるが、その背後には「刀を手にし撃ちて数人を殺す」との事実(憶測?)があり、「数人」が「八人」と“具体化”され、さらに単に剣を振るって殺すだけではなく、「俺がヒトに背こうが、ヒトを俺には背かせない」との曹操の独白が付加(潤色?)されているのだ。
曹操が口にした(とされる)「俺がヒトに背こうが、ヒトを俺には背かせない」を実際に聞いた人がいるのか甚だ疑問だが、それが「捉放曹」の舞台で見られる「俺曹操一生做事、寧教我負天下人、不教天下人来負我!」の台詞に“過激”に劇的変化を来したと考えられる。なぜか。その方が曹操の冷血・豪胆さを表現できるし、芝居として面白いからだろう。
正史を下敷きに書き継がれた『三国演義』では、身柄を拘束された際に曹操は、「皇甫と申す旅の商人」と偽っているが、「捉放曹」では「オレ様が曹操だ」と堂々と名乗り出た。
曹操が陳宮と連れだって呂伯奢と出会った場面だが、『三国演義』では呂の屋敷に出向いているが、「捉放曹」では道端に座っていた呂が「これは如何したことか。向こうからやって来るのは、なんと曹操ではないか」と偶然の出会いとされている。
かくして董卓の追っ手に恐怖する曹操から、豪胆残虐にも退路を断ち、権力への断固たる決意を披瀝する曹操へと、大きく性格を変えてゆく。
なぜ、このように物語は千変万化し縺れるものなのか。やはり最終的には劇的効果を求める京劇の創り手――戯作者、役者、そして客――の考えが働くからだろう。《QED》