――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港29)

【知道中国 2147回】                       二〇・十・仲四

――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港29)

 

“香港の文革”は、毛沢東が最大の政敵と定めた劉少奇派を抹殺・排除し、共産党の制圧に成功した文革派に同調する親中左派が演じた予定調和の集団芝居だった。1960年代末から71年にかけての香港における文革風景が、そのことを物語っていたように思える。李小龍(ブルース・リー)の代表作である『死亡遊戯』に倣うなら、『文革遊戯』と言ったところか。

だが、香港の親中左派は心底から北京の指令に従順に応じていたのか。そんな風を装って北京からの過度の圧力を避けようとした。いわば「支配されながら支配する」という妙手の可能性はなかっただろうか。この点が気になる。

その後、毛沢東の死、文革の終焉、�小平による開放、さらに江沢民、胡錦濤を経て習近平の明確な富国強兵路線へ――共産党の指し示す方向が変化するに応じて、香港のおける左派勢力は金権親中派から過激反中派までが「理」と「利」を巡って入り乱れる。複雑多岐にわたる思想模様を呈するばかりか、利害打算を巡る思惑が錯綜することになる。だが当時から、いや遡れば香港島を大英帝国に割譲した1842年当時から現在まで、共産党政権を含む歴代中央政権は香港の実情を正確に把握したことはあるのだろうか。

共産党政権に限った場合、香港を振り回すことは知っていても、香港住民の素朴な嫌中感に思い至ることはなかった。あるいは香港返還にみられた成功体験が、その後の権力の驕りの止め処もない拡大を招きはしなかったか。これを言い換えるなら、一強体制を弄ぶ習近平政権は“夜郎自大のスパイラル”に陥ってしまったということだ。

中国の権力者の心情を考える時、やはり曹操の「寧可我負天下人、天下人不負我」が浮かぶ。

『三国志演義』の5、6回目である。董卓殺しに失敗し逃亡中の身を匿ってくれた知り合い一家を、疑心暗鬼に駆られて皆殺しにしてしまった曹操を、同行する陳宮が諌める。すると曹操は悪びれることなく、「オレが天下人(てんか)に負(そ)むこうが、天下人(てんか)をオレには負むかせない」と言い放つ。絶対権力信奉者の鋼鉄のような意志の前では無告の民の心情など塵芥の如きもの、というわけだ。さしずめ「寧可我負香港人、香港人不負我」といったところだ。

あるいは北京の奥の院で権力闘争に明け暮れる権力亡者の無頼漢は、しょせん香港の住民の心情なんぞ気にも止めないということだろうか。

以上は香港のみならず台湾、マカオ、さらには東南アジアの華人社会を包括した中央権力と地方・周縁社会の将来を考える上でも重要な問題を含んでいると思われるので、いずれ改めてユックリと論じなければならないだろう。

かくて閑話休題。いまは本題である我が留学生活がスムースに動き出した頃に戻ることにする。

文蔚楼24階の下宿生活に慣れ始めた頃、時に夕方になると大家のS夫妻がパジャマ姿で外出するのが気になった。1時間ほどして戻ってくるのだが、どうやら2人は外食を済ませたうえに買い物をしてくるようだ。夕方の街を歩くと、ちょっとした買い物や屋台での夕食など、意外にもパジャマ姿が目に着く。

室内着のパジャマでの外出など思いもつかなかっただけに「日本ではありえないが・・・」とSさんに質問すると、「他人の目は気にしない。ともかくも快適だから、それでいい。一度、試してみては」と。そこである時、思い切って夕食でもと屋台の小粥屋に出掛けてみた。便利だが落着かない。これではウチとソトの区別がつかない。日本人の感覚では誉められたものではない。1回で止めた。

思い起こせば前世紀末の頃か。当時の朱鎔基首相が上海市民にパジャマでの外出を止めるよう訴えたことがあったような。上海を歩く諸外国の人々の目に「文明に違う行為」、直截に表現するなら野蛮で恥ずべき行為と映ることを危惧したから。と言うことは、当時の上海ではパジャマ外出は日常的だった。上海でそうなら、おそらく全国各地の都市部でもそうだっただろう。

パジャマ外出に限るなら一国両制ならぬ一国一制・・・どうにもワケが分からない。《QED》


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