――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港196)

【知道中国 2314回】                       二二・一・十

――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港196)

毛沢東に楯突いたら彭徳懐のように血祭りにされる。こんな恐怖が、廬山に参集した共産党幹部の五体を突き抜けたはず。その後の経緯を見れば明らかだが、共産党No.2だった劉少奇や林彪への仕打ちは、毛沢東からすれば「殺死老狗、免除後患」に近かったような。

おそらく対外開放政策に踏み切った際の�小平も、心私かに「寧教我負天下人、不教天下人来負我!」ではなかったか。いや、そうであったに違いない。そうでなければ建国以来30余年に亘って絶対権力を誇ってきた毛沢東の路線をひっくり返すことなどできなかった。だからこそ華国鋒を筆頭とする毛沢東派の残党を血祭りに上げたに違いない。

�小平に引き上がられた形の江沢民も、江沢民との間がシックリとはいっていたとは言い難い胡錦波濤も、強弱の違いはあれ「寧教我負天下人、不教天下人来負我!」。そうでなければ共産党トップなどやってはいられない。傍若無人振りは一貫不惑で徹頭徹尾。

さて習近平だが総書記を2期10年続け、いまや3期目もほぼ手中に収め、ヒョッとすると毛沢東と同等、いやそれ以上の“絶対王者”の可能性もなきにしもあらず。であればこそ、誰がなんと言おうと「寧教我負天下人、不教天下人来負我!」ではなかろうか。もはや手加減無用。思うが儘に一強体制を突き進むということだろう。

「小放牛」の幼い牛飼いが口にした「功名不成、富貴是個天生。光陰易老、好似風裡個燈。有朝大限到、黄泉路上行。金銀過百斗、那個半毫分。只看奔労碌、只為口和身、口・・・和身」。「蘇三起解」に登場する老護送役人の崇公道が傍らの蘇三を教え諭すように説いた「?説?公道、我説我公道、公道不公道、自有天知道」。そして最後は「捉送曹」が傲然と言い放った「俺曹操一生做事、寧教我負天下人、不教天下人来負我!」――

これら台詞をつなぎ合わせると、中国社会における人々の《生き方》《生きる姿》《生きる形》――それを文化と呼ぶべきだろう――が浮かび上がってくるように思える。たしかに人間万事が「只為口和身、口・・・和身」ではあるだろう。だがイザとなったら自分が大事。そこで「公道不公道、自有天知道」となり、絶対無謬の「天」に持ち出し自らの正しさを支えようとする。まさに「天」の理は我にあり。夜郎自大そのものだ。

このカラクリの行き着いた先が、身勝手の極地である「寧教我負天下人、不教天下人来負我!」となる。やや強引に結論づけるなら、中国では14億人余が「只為口和身、口・・・和身」と日々を送りながら、心の裡に「公道不公道、自有天知道」の思いを秘め、心私かに「寧教我負天下人、不教天下人来負我!」を念じている。であればこそ、その頂点に立つ共産党総書記にすれば、想像を絶するほどの決意で、徹底的に「寧教我負天下人、不教天下人来負我!」であるように思えるのだが。

さて、こういう困った隣人には如何に対処すべきか。そこで思い出されるのが、アメリカ軍中最高・最強の中国通と言われ、ルーズベルト大統領によって中国戦線米軍司令官兼?介石付参謀として?介石の幕下に送り込まれながら?介石とソリがあわず、1944年秋に同ポストを同大統領によって解任されたJ・スティルウェル将軍の臨終の言葉である。

同将軍はオブザーバーとしてビキニ環礁での原爆実験に参加したことが原因したと言われるが、その後の胃癌を患って世を去っている。死を前にしたスティルウェルは「きみわからんのかね、中国人が重んじるのは力だけだということが」と呟いたとB・W・タックマンは『失敗したアメリカの中国政策』(朝日新聞社 1996年)に綴った。

「重んじるのは力だけ」だからこそ、「寧教我負天下人、不教天下人来負我!」と嘯くに違いない。では身勝手極まる厄介で困った隣人に、我が国はどのように向き合うべきか。何事にも由らず。声高で傲岸不遜ではあるが、そういった振る舞いを日常茶飯と思い込んでいる彼らを、どのような方法でへこませることが出来るのか。《QED》


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