――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港173)

【知道中国 2291回】                       二一・十・念六

――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港173)

証拠隠滅もそこそこに、後は強奪した大金を湯水のように使うばかり。しょせん趙大は小狡い小悪党である。豪邸を建て、きらびやかな衣装を身に纏い、夫婦揃って身の丈に合わない贅沢三昧の日々。

あっという間に3年の時が過ぎた。

草履代金を取り立てに草履職人の張別古がやって来るが、以前の見慣れた廃屋同然の旅籠が見当たらない。モノは試しである。旅籠のあった場所に建つ豪邸に向かって「おーい、おーい、趙大はいるか~」と声を掛けた。すると大旦那の態をした趙大が現れて、大仰に口を開く。「貧乏人風情が、趙大と呼び捨てするとは失礼千万と言うもの。頭が高い。趙大人(ちょうのおおだんなさま)と呼べ」と。

張が草履代金を請求すると、趙大は切り刻んだ劉世昌の死体を捏ね混ぜて焼きあげた烏盆(黒い鉢)を指さして、「はした金じゃないか。ツベコベぬかすな。草履代はこれで十分だ。これでも持って、トットと失せろ」と、冷たい限り。

どうも割が合わずに納得がいかないが、ここは我慢しいて引き下がるしかない。そこで烏盆を手に、張は家路を急ぐ。街角で一休み。すると烏盆に宿った劉世昌の霊魂が「張別古、老張(張さん、張じいさんよ)」と呼び掛け、3年前の雨の日に起こした事の顛末を語り出す。京劇は歌劇(オペラ)だから、正しくは唱い出すと言うべきだろう。

ここからが、この演目の山場となる。とは言え烏盆が唱い出すわけではない。劉世昌に扮した役者が真っ黒の外套のような衣装を身につけ、霊魂を表す「紙穂」と呼ばれる白い短冊状の紙を両頬から垂らして登場し、烏盆の脇にソッと立ち3年前の雨の日に趙大夫婦から受けた残忍極まりない仕打ちを切々と唱い、訥々と語る。

するとそこへ折良く県衙(県役所)の下っ端役人が「地方、地方(みなのしゅう、みなのしゅう)・・・オカミに向かって不満や要求がオアリなら、どうか遠慮なく申し出られマショウゾ」と声を掛けながらやって来た。

官に対する不平不満や要望、さらには納得のいかない問題があったら直接訴え出よというのだから、形の上からだけは直接民主制とも言えなくもない。共産党政権の現在でも「信訪(「人民来信来訪」の略称)」と呼ばれる制度があり、個人であれ民間組織であれ、請願・陳情・苦情などを政府に直接訴えることが出来る。信訪を受け付ける部署は、中央・地方を問わず官庁の付近に設けられている。これまた形の上では、封建王朝時代の「地方、地方・・・」を踏襲したものと言ってもよさそうだ。しょせんは中国の共産党と言うことか。

中国社会では古くから「只許州官放火、不許老百姓点灯」と言い慣わされているように、役人が勝手に放火しても罪は問われないが、老百姓(じんみん)は灯りを点すことも許され頭に罪になる。このように官(役人。共産党政権下では幹部)の横暴は極まりなかった。権力を振り回し、庶民を泣かせ、私服を肥やすことが役人の“作法”だったわけであり、かくして役人=貪官汚吏という図式が一般化していた。

ところが時として伝統に逆らって役人社会の「空気」を読まない、あるいは「同調圧力」に屈することなく、清廉潔癖・破邪顕正・悪事厳罰を体現したかのような絶滅危惧種級の役人が生まれるらしい。これを「清官」と呼んで称え、史書に功績を書き留める。その代表が海瑞であり包公(包丞)だった。これを裏返せば圧倒的多数は貪官汚吏と言うことだ。

かくして張別古の手に抱かれた烏盆は包公の前で自らの身に降りかかった不幸と趙大夫婦の悪行を訴え、積年の恨みを晴らすのであった。もちろん趙大夫婦は処刑となった。

なぜ、この演目が好まれるのか。現実には存在しないにも等しい清官が登場し、悪を懲らしてくれるからだ。だが共産党は、なぜか率先して禁戯措置を講じてしまった。《QED》


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