――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港16)

【知道中国 2134回】                       二〇・九・仲八

――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港16)

 門番が指し示す先を追うと、洒落た邸宅の車寄せに40代前半と思しき女性が手招きしている。甘先生だ。どんぐりマナコの丸顔で頑丈そうな中肉中背。決して美人ではない。毛沢東が「中国の女性は化粧を好まず、軍装を好む」と形容していた“新中国の理想的女性像”にピッタリのタイプだった。

 真ん中に安っぽい木製の机と2脚の椅子が置かれていた部屋に入る。黒光りがする板張りの床に、年代物の使い込まれた高価そうな家具。そのアンバランスな雰囲気に戸惑ったが、先生の自宅は香港島にあり、この部屋は個人教授用の教室として借りているらしい。

 たどたどしい中国語で自己紹介が終わると、机の上に置かれていたテキストを声を出して読むように、と。今でも覚えているが、それは「説的話是語言、写的文章也是語言、可是説的話跟写的文章完全不一様・・・」で始まる、話し言葉と書き言葉の違いについて書かれた文章だった。途中まで読むと、「じゃ次」と。中国人の生き方を解説した「差不多先生」だった。早い時期のアメリカ留学組で、プラグマテチズム(実用主義)哲学を中国に紹介した胡適の文章だったように記憶する。

 なにを聞かれようとも、どうされようとも、どんな結果になろうとも「差不多(そこそこ、だいたい、まずまず、ま~ま~、別に~ッ)」で済ませてしまう。中国人は己がない。だから反省も自省も省察もなく進歩もない――こんな内容だったと思う。

 一通り読み終わると、先生は目の前のテキストを指さして、「次回から、これで」。いましがた読んだテキストで次回から本格授業開始の運びとなった。1週1回1時間は少ないだろうが、懐具合を考えれば致し方ない。以後、甘先生の許に通っての個人教授は4年ほどに及んだような。途中から先生の御主人による授業となり、授業場所も香港島北角に聳え立つ五洲大廈(ウンチョウ・タイハ)に代わった。

 さて次の週の「差不多先生」から個人授業の本格開始となる。

胡適の短い文章を何本か読んだ後、謝冰心、落花生や巴金へ。それらを終えると、待望の老舎だった。なぜ待望か。それは老舎が北京生まれの満州族で、ことに作品中の会話の部分に京片子(北京人独特の単語、耳に心地よい発音・言い回し)が多用されているからだ。『猫城記』『牛天賜伝』『龍鬚溝』『駱駝祥子』などのサワリを読んだ。さすがに先生は北京生まれの北京育ちだった。会話の部分の朗読を聞きながら、暫し耳福の一刻を楽しませてもらったものだ。

 老舎が済んだ時点で、次の教材として『李家荘的変遷』『青春之歌』『紅岩』『金光大道』など現代小説のベストセターの類を提案したが、先生からは色よい返事は返ってこない。やはり共産党を嫌って香港に逃げてきただけあって、口にこそ出さないものの、共産党式の勧善懲悪・刻苦勉励ストーリーは嫌いに違いない。そこで一気に魯迅へと進んだ。

 「某君昆仲(某君兄弟)・・・」ではじまり、「・・・還没吃人的孩子、救救孩子(まだ人を喰らったことのない子供を救え)」で終わる『狂人日記』から始まり、「孔乙己」「祝福」「薬」などの小品、そして代表作の『阿Q正伝』まで。

 『阿Q正伝』は、「プライドだけは高いが、実力の伴わない阿Qが人々から辱めを受けた際、精神的には相手が自分より優位に立っているという自己欺瞞によって、自らを慰めるのであるが、その“精神的勝利法”こそが、中国人の悪しき国民性であり、そこからの脱却なしに中国の再生はあり得ないと考える魯迅の思いを形象化した作品」(『岩波 現代中国事典』岩波書店 1999年)として知られる。一方、『狂人日記』は狂人の戯言の形を借りながら、中国人のヒト喰いを告発している。阿Qも『狂人日記』の主人公である「狂人」も共に中国人である。ならば三段論法では阿Qもヒトを喰っている・・・はず。《QED》


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