――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港14)
2枚目の衝撃度はハンパではない。キョーレツの極みだった。
郊外の山中で立ち木に首から吊された黒焦げ死体の写真は、「迫真の報道写真」などといったありきたりの表現では追い付かないほどに生々しい。アップで1枚、ロングで1枚、下から1枚、横から1枚といった組写真で、これに煽り気味のキャプションが加わるから、薄気味悪さは増すばかり。死体が発する生臭さ、猟奇漂うおどろおどろしいばかりの現場状況がマジマジと伝わってくる。モノクロ写真ではあるものの、モノ凄い迫力だった。
ダランと四肢が伸びた死体は真っ黒こげ。ピンと張ったロープの先の首は伸び切っている。頸部を括られた顔からは、被害者の恐怖と怨念が立ちのぼってくるようだ。殺してから立ち木に吊して火を点けたのか。はたまた虫の息の被害者を焼いてから立ち木に括りつけたのか。それとも首に懸けたロープの一端を立ち木に縛りつけた後で火を放ったのか。
たしか解説記事には黒社会の敵対する組織同士の縄張り争いの犠牲者だったように書かれていたが、仲間を裏切った者への見せしめだったのかもしれない。
誰が、どんな狙いから恐怖を呼ぶ死体写真を“天下の公器”であるはずの新聞に掲載したのか。この死体写真は、あるいは敵対組織への勝利のサインとも考えられるし、「仲間を裏切るとこういう痛い目に遭うぞ!」という無言の警告とも受け取れる。
いくら「何でもあり」だった当時の香港でも、新聞が黒社会――当時の香港で主たる組織は、三合会、新義安、14K、和安楽、和合桃、和勝和――の広報紙であったはずはなかろうと思いたい。だが、あるいは業界紙の役割を果たしていた可能性も否定できそうにない。
昨年6月来の香港における一連の反中・民主化運動の推進役の1人であり、「香港における出版・報道の自由の象徴」と目され、香港国家安全法施行以降に逮捕された黎智英(ジミー・ライ)が経営する『蘋果日報』は、1995年に創刊されている。情報の信頼性に問題ありとの声もあったが、歯に衣着せぬ強烈な中国批判のみならず、独自の取材による暴露記事や告発記事もあって販売を伸ばしてきたことは事実だろう。
創刊から5年ほどを経た頃、同新聞本社で新聞編集と発行に関する全権を掌握していた同紙論説主幹にインタビューした際、「『蘋果日報』は迫真のカラー写真を多用するのか。交通事故や殺人現場の生々しい写真の掲載は人権上問題はなかろうか」と質問すると、「新聞は活字(記事)からの情報ではなく、ビジュアルな媒体による感覚・感情・衝撃を売るもの。だから活字は必要最小限に押さえている」と応えてくれた。
たんなるセンセーショナリズムでも、くそリアリズムでも、現場主義でも、ましてや露悪趣味でもないようだ。あるいは死体写真を堂々と報じるメディアの、そんな写真をスンナリと受け入れる読者側の、それぞれの姿勢にこそ、彼ら香港住人の死体観とでもいうべきものがあり、それは彼らの《生き方》に繋がっているようにも思える。
それぞれの《生き方》が判らない。頭、あるいは文字の上では理解できたように思えても、実際に違和感は解消されない。解消されるわけがない。であるなら違和感は違和感として承知しておくしかなさそうだ。
ここで、当時の香港における日本の新聞について少し記しておきたい。図書館に行けば新聞を読めるが、やはり時には日本の新聞を読みたくなる。日本の新聞は航空便で郵送され、尖沙咀の先端にあった天星碼頭(スター・フェリー)に並んだ売店で買うことが出来たが、高価すぎて貧乏留学生には手が出ない。ところが幸運なことに、日本研究の教授に日本の新聞の整理を仰せつかり、数日遅れながら数紙の日本の新聞を無料で読むことができるようになった。どうやら貧乏留学生にも“拾う神”の目が向いて来たようだ。《QED》