――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港111)

【知道中国 2229回】                       二一・五・初三

――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港111)

駆け足だが、もう少し九龍城の歴史を振り返っておきたい。それというのも、撤去へ向けての動きだすことで九龍城が活力を失っていったことを確認しておきたいからだ。

1977年、九龍城の「三不管」の伝統をひっくり返すような動きが、ソロリと起きた。「殖民地政府が公然と介入した」と表現するのは余りにも大袈裟とは思うが、九龍城民政区内に共同水道設備を1か所設置したのである。この前後、街坊福利会はゴミ収集と道路清掃に乗り出す。A+bの組み合わせが始まったということだ。

次いで1980年に入るとA+bの関係は深化し、警察官の定期パトロールが始まり、中国からの不法入居者の摘発に乗りだす。どうやらA+b+Cの仕組みが動き出したようだ。

1984年に入ると、九龍城の息の根を止めるような事態が起きる。香港返還をめぐる中英両政府の合意である。

かくしてbの意向を考慮することなくA+Cによる九龍城――と言うより、むしろ九龍城が維持してきた生活の仕組み――は解体に向かうことになった。

香港返還に関する中英合意が調印された翌年の1986年、九龍城周辺のスラム撤去が完了する。その翌年、つまり香港返還を10年後に控えた1987年、殖民地政府は向こう3年以内に九龍城取り壊す方針を決定し、1992年7月には住民の退去が完了した。その5か月後の1992年12月、「香港に取り残された中華民国」である調景嶺(通称“小台湾”)の取り壊しが通告されている。

九龍城と調景嶺の解体は、あるいは香港を舞台とする中国の近現代史の清算と捉えることもできそうだ。住民が去った高層雑居ビル群解体は1993年2月に始まり、94年4月に完了し、整地された跡地には九龍寨城公園が建設され、1995年12月に開園式が行われた。

九龍寨城公園に、かつてのおどろおどろしく活力に満ちた九龍城の面影を見ることはできそうにない。

――こう九龍城の歩みを辿ってみると、返還から一国両制、そして習近平政権の直轄地へと変貌する香港の姿が九龍城の歩みに二重写しになってくる。

じつは香港返還交渉においてBは部外者でしかなかった。実質的にはA(植民地政府=英国政府)とCの間で進められ合意に達したのである。今になってAが口にする民主主義云々は、あるいは何の役にも立たない“後付けのアリバイ証明”、あるいは“民主化の口先介入”に近いとしか言いようはない。極論だとは思うが。

単純に戯画化して表現するなら、AはBを捨ててでも可能な限り高い値段で香港を売り抜きたかった。一方のCはBの意思・希望・要望を無視してもなお“金の卵を産む鶏”を居抜きで買い叩きたかった――これが返還交渉の実態だったに違いない。

AとCとが互いの思惑を秘めて返還交渉(九龍城の場合は解体)を進める中で、B(b)に一定の役割を与えつつ、最終的にはB(b)の存在は希薄化されるばかり。「三不管」であればこそ成立していた妖し気ながら自由闊達で活力に満ちていた空間は、「一管」へと変貌する中で精彩を欠いてしまう。だからこそ九龍城の運命が香港に重なってしまう。

「木は動かすと死ぬが、人は動かすと活き活きする」との格言に倣うなら、どうやら九龍城は政治の力で動かされ地上から?き消され、死んでしまった。九龍城の跡地に建設された九龍城寨城公園は明るい。だが、その明るさは余りにも無機質で薄っぺらだ。老朽高層雑居ビル群が放っていた“光り輝く禍々しさ”は望むべくもない。それはまた香港の、殖民地と中華人民共和国特別行政区の違いに通じると思う。

込み入った話はこの辺で切り上げるとして、1970年代前半の記憶を呼び覚ましながら、“黄昏の輝き”を放っていた当時の九龍城を散策することとしたい。《QED》


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