――習近平少年の読書遍歴・・・“あの世代”を育てた書籍(習64)

【知道中国 2398回】                       二二・七・念六

――習近平少年の読書遍歴・・・“あの世代”を育てた書籍(習64)

司馬?の貧しい生活を助け、なんとしても勉強したいという願いを支えたのは、共産党の党員であり支持者だった。もちろん後になって彼らの身分を知ることになるのだが。

かくて司馬?もまた、知らず覚らずのうちに共産党活動に入ってゆく。やがて、定められた運命に従うようにして革命の聖地・延安へ。

司馬?が学んだのは、国民党や日本軍治下の秘密工作要員を養成する敵区工作幹部訓練班だった。1、2週間に1回の割合で毛沢東がやってきて、強い湖南訛りで政治報告をする。声は低く、抑揚がない。だがユーモアに溢れ、学生の間には笑いが絶えなかった。

「中国革命が勝利したら、どんな国家を建設しなければならないか。同志諸君、1人1人に洋風の瀟洒な家とステキな車を提供しよう。誰にでも海外旅行を約束しようじゃないか」。さらにユーモアを込めて「兄弟(おれ)もまだ外国に行ってない。そこでだ、その時になったらみんなと一緒に出かけて、見聞を広めたいもんだ」。こう砕けた調子で人々の心を捉え支持者を増やしていったのだろう。

こんな毛の話し振りに対し、司馬?は「党の指導者の口から出たことだが、とても信用できそうにない。だが、確かにこう聞きけば、誰もが愉快な気分になる」と綴る。

もう1人の指導者だった王明は、訥々としゃべる“村夫子然”とした毛沢東とは大違いだった。ソ連共産党史を講義したが、たったの1回きりで後は代講任せ。とは言え颯爽と登壇し、理路整然と畳みかけるような話し振りには説得力があり、聴講者全員が聞き惚れた。ソ連帰りで当時はレッキとした王明派だった康生は、周囲に向かって「我が党の天才的指導者・王明同志万歳」と声を挙げることを常に求めていたそうだ。

その康生は西洋商社の買弁風というから、相当にキザな身形を好んだのだろう。革の長靴を愛用し乗馬と洒落込み、西洋種の猟犬を引き連れ猟に勤しむ。外出時は常に4人以上の護衛に守られ、辺りを睥睨しながら威風堂々と闊歩する。モスクワ帰りのエリート臭プンプンだから、誰からも好かれそうにない。やはり冷酷非情な風見鶏でもあったがゆえに、康生は血で血を洗う権力闘争の修羅場を潜り抜けることができたに違いない。

やがて康生は王明を捨てて毛沢東派に転じ、「特務の親玉」「中国のベリア」を恐れられ、特務活動を推し進め毛沢東独裁体制確立に大いに貢献することになる。

司馬?は陳雲、康生、李富春、王稼祥、張聞天など幹部から党組織、秘密工作、群衆運動、中国革命と武装闘争、階級闘争と民族闘争などの講義を受けた後、国民党支配下の敵地区での秘密闘争に投入される。

数限りなく死線を越え、赫々たる成果を挙げた。だが同志を疑い、拷問が日常化し、昨日までの同志を反革命・反党分子として処刑するも、明日になれば処刑を指令した幹部が同じ罪名で抹殺される。

「こんな組織生活に、正直言ってうんざりしはじめていた。〔中略〕マルクス主義に対する素朴な信仰は心の中で脆くも壊れ果て」、やがて司馬?の心に、共産党に対する猜疑と恐怖が湧き上がってくる。1949年5月の共産党軍入城を機に上海を脱出。香港でペンを武器に共産党告発をすることとなる。不撓不屈・不惜身命とは言うものの、現実は厳しい。多勢に無勢の日々が続く。

香港留学時、時折、陋屋に司馬?を訪ね「大陸の仲間からの情報」を基にした鋭い情勢分析を聞かせてもらったが、手元不如意な様は異国の貧乏留学生にも見て取れた。意気軒昂な姿勢は一貫不惑だったが、その佇まいに時に悲哀の2文字を痛感したものだ。

68年に中国で出版された書籍は持たないが、香港で出版された書籍は1冊だけ手許に残る。その1冊である『血涙斑斑』(張?萍 宇宙出版社)を参考までに紹介しておく。《QED》


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