――習近平少年の読書遍歴・・・“あの世代”を育てた書籍(習38)
いやはや恐怖満載の“トンでも大躍進”ではあるが、 『餓鬼 秘密にされた毛沢東中国の飢饉』には、肥料にするために田畑に埋められたチベットの囚人の話や、人肉を茹で上げて肥料にする方法を考え付いたことから100人もの子どもを茹でたとの噂が立った某人民公社党書記の話など、北の金王朝も“真っ青”としか言いようのない背筋も凍るばかりの荒涼とした風景が描かれている。
話半分としても、おぞまし過ぎる。とはいえ、ここで以下を確認しておく必要があるだろう。
大躍進の生き地獄から抜け出し4年ほどが過ぎた1966年には文革が始まり、1976年の毛沢東の死と共に文革は終焉。その2年後に対外開放が始まり、それから20年ほどが過ぎた2001年に中国はWTO(世界貿易機関)に加盟し、2010年にはGDP(国内総生産)で日本を抜いて世界第2位に。
飢餓地獄脱出からGDP世界第2位までの半世紀ほどの間、文革、全面戦争一歩手前の中ソ国境紛争、ニクソン訪中と米中和解、林彪・劉少奇の“惨死”、批林批孔、四人組の専横政治、唐山大地震、朱徳・周恩来の死、毛沢東の死、四人組逮捕、鄧小平復活、対外開放、天安門事件、WTO加盟、GDP世界第2位、米中対決と、中国の人々は激しく、凄まじく、血腥く、欲深く・・・じつに落ち着きのない日々を、まるでジェットコースターのように繰り返していたことになる。
大躍進失敗に対する共産党幹部の間に漂う雰囲気を察してか。毛沢東は「私は反省しない」と嘯き、「なんなら井崗山の昔に立ち返り、武装闘争を始めてもいいんだゼ」とばかりに傲然と口にした、とか。恫喝と表現するしかなさそうな毛沢東の勢いに気圧され、劉少奇以下の幹部は口を噤むしかなかった。かくて大躍進は止むことなく、悲劇は継続することになる。
毛沢東死去後、中国でも大躍進当時の回想録や研究書などの関連書籍が出版されるようになったが、そのなかの1冊『「天堂」挽歌』(趙豊主編 朝華出版社 1993年)は、「1959年から61年の間の非正常死亡人数と減少出生人数は、4000万人前後」としている。
「非正常死亡人」とは餓死者を、「減少出生」とは出産の激減状況を指す。いずれにせよ「4000万人前後」の死体は、おそらくまともには葬られなかっただろうし、また、葬りたくてもできなかったに違いない。ちなみに、当時6.6億人から6.7億人前後の人口に対して4000万人前後である。数字は無機質ではあるが、無機質の数字の間から犠牲者の多さ、言い換えるなら悲劇の凄まじさが浮かんでこようというもの。だが、それだけの悲劇を経て社会全体が安定化への道を歩みはじめたにもかかわらず、ほどなく文革という超弩級の惨劇が社会全体を覆ってしまう。
ここで「減少出生」についての体験を。1979年春、タイ東部に点在するカンボジア難民の収容所に1週間ほど通い、朝から晩まで過ごしたことがある。場所はタイ東部の街・アランヤプラテート北郊のカオイダン難民収容所。国連の難民高等弁務官事務所とタイ国軍が管理し、14万人余のカンボジア難民が収容されていた。
アランヤプラテートの東郊を流れる小川に架かる橋を渡ると、そこがカンボジア最西端の街・ポイペト。カンボジア内戦末期にはポイペトはポル・ポト軍の拠点の1つだった。それというのもポイペトからタイ国境に沿って南方に広がるカルダモン山系はルビーの産地であり、そのルビーがポル・ポト軍の有力な資金源だったからだ。
話の行きがかり上、もう少し。
日本の外務省がタイのチャーチャーイ政権(88~92年)のブレーン集団をテコにしてカンボジア和平の実現にこぎ着けたわけだが、そこでポイペトは戦場の街からカジノの街に。なんとも変わり身の早いことか。
2002年前後に久々にアランヤプラテートに。橋を渡ると、中心街の両側には大小のカジノが並んでいた。何軒かを覗くと、湧き上がるのはタイ語の歓声。周囲の会話は圧倒的にタイ語。じつは客は主にバンコクからカジノを楽しみにやって来るタイ人(その多くは華人)だったのだ。《QED》