――習近平少年の読書遍歴・・・“あの世代”を育てた書籍(習37)

【知道中国 2371回】                       二二・五・念五

――習近平少年の読書遍歴・・・“あの世代”を育てた書籍(習37)

 様々な疑問を率直に綴ったバルトの中国旅行から10年ほど遡った1960年代初頭のことである。若き日の大江健三郎が中国旅行に招待された。まさに中国が飢餓地獄に苛まれていた頃だった。

 大江は「僕がこの中国旅行でえた、最も重要な印象は、この東洋の一郭に、たしかに希望をもった若い人たちが生きて明日にむかっているということだ。〔中略〕ぼくらは中国でとにかく真に勇気づけられた。〔中略〕一人の農民にとって日本ですむより中国ですむことがずっと幸福だ、とはいえるだろう」と感涙に咽んだ挙げ句、案の定、思考停止である。

 「一人の農民にとって日本ですむより中国ですむことがずっと幸福だ」などと無知蒙昧の極み。ヒョッとして毛沢東=共産党政治の「毒まんじゅう」を喰らい過ぎたのか。だが同じ招待客でも、バルトは相手の言うことを鵜呑みにしないかった。「細くて清潔な手」の《労働者》がいるわけがない。この手の普通の感覚すら、大江は持ち合わせていなかった。

過激な政治運動に苦しみ、飢餓地獄に責め苛まれる農民に向かって、「一人の農民にとって日本ですむより中国ですむことがずっと幸福だ」などと、口が裂けても言えないはずだ。

やはり大江の目は、バルトはもとよりスエーデンの女子大生にも劣っていた。いったい彼の目は何処に付いていたのか。どうやら後のノーベル文学賞受賞者の目は紛うことなく節穴だったと言わざるを得ない。

大江を含め日本人の目が狂っていたのか。共産党政権用意の「毒まんじゅう」に五感が痺れてしまったのか。それとも巧妙な統一戦線工作によって、中国滞在中のバラ色の印象を脳ミソに深く刻み込まれてしまったのか。ここら辺りに、日本人の中国に向かう姿勢の根本的欠陥が潜んでいる。

ともあれ日本では伝えられることなく、たとえ報じられたとしても偽情報―-今風に言うなら「フェイク・ニュース」と退けられたに違いない大躍進の大失敗・惨状について、当時から香港や台湾では詳細に報じられていた。欧米でも多くの研究書や告発書が出版されている。

たとえば『餓鬼 秘密にされた毛沢東中国の飢饉』(ジャスパー・ベッカー 中央公論新社 1999年)は、「初めの頃は、村人たちは柩に入れて遺体を葬っていた。しかし、材木が不足するようになると、木綿にくるんでうめた。木綿もなくなると、埋めた遺体が十分に腐敗するまで、夜も見張りに立った。愛する親族が食べられないよう守るためだ。膨大な死亡者数を隠すために、鳳陽のある地方の幹部は、遺体処理方法について規則を作った」と記している。

 その規則を綴った「鳳陽報告書」に拠れば、

「一、浅く埋めることを禁ずる。遺体は少なくとも三フィートの深さに埋める。その上に穀物を植えること。

  二、道路の近くに埋めることを禁ずる。

 

 三、泣き叫ぶことを禁ずる。

  四、喪服着用を禁ずる。」

 『餓鬼 秘密にされた毛沢東中国の飢饉』は、「黄湾人民公社の張湾生産隊では、規則はいっそう厳しかった。人々は、喪服である白い服の着用を許されず、赤い服を着なければならなかった。中国では赤はお祝いの色である。万山生産大隊の幹部は、遺体を葬る前に二斤のアルコール税を徴収し、遺体の衣服をはぎとって持ち帰るのだった。  

葬る人のいない遺体は、倒れたところにそのまま放置された。当時少年だったある人は、その頃を振りかえり、自分を含めた子供たちは、遺体をおもちゃにして遊んでさえいたと語った。気のふれた男が、自分の首に四つか五つの頭をぶらさげ、大声でわめきながらうろついていたことを覚えている。遺体が浅く埋められたところでは、硬直した脚や頭が地上に突きでていた。何年かたった後でも、旱魃になると、いいかげんに埋められた骸骨が地表に現われた」 と続ける。惨憺!《QED》


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