――習近平少年の読書遍歴・・・“あの世代”を育てた書籍(習34)
59年が終わった次の60年は、大躍進の巻き起こした“大悲劇”に全土が苦しみ始めた頃に当たる。今にして思えば、その苦しみは大躍進への異常なまでの熱気が必然的に巻き起こしたように思う。参考までに、その辺りの事情を少し記しておくことにする。
当時を振り返るなら、やはり毛沢東は「ハーメルンの笛吹き男」だった。ならば国民は、その笛の音に誘われてハーメルン市郊外の山中の洞窟に向かい、再び両親の許へ帰ってくることのなかった少年少女たちと言うことになる。
毛沢東の大号令が鳴り響くや、全国民は現実無視の急進的社会主義化への道を突き進み始め、全土は挙げて「超英�美(イギリスを追い越し、アメリカに追いつく)」のスローガンに煽られ、異常な熱気に沸き返る。かくて国を挙げての興奮の中で人々は「ハーメルンの少年少女」と化した。
全国の職場や学校の空き地に素人の手でレンガを組み、小型で幼稚な溶鉱炉を次々と出現させたのである。名づけて「土法鉱炉」、いわば手作りの“草の根の溶鉱炉”である。その粗製濫造の溶鉱炉に身の回りで目に付く鉄製品――台所の鍋や釜、家の窓枠や門扉などを手当たり次第に放り込む。これが鉄の原材料となった。火力は近くの山から切りだした木材である。火力が低い上に、原材料は混ぜ物入りのクズ鉄製品である。確かに溶鉱炉からは真っ赤になった鉄が流れ出しはするが、しょせんはカスカスのクズ鉄。ナマクラでモノの役に立つわけがなかった。
58年の某日のことだ。四川省成都にあった某火葬場に、逆上せあがってしまった近隣住民が大挙して押しかけ、口々に「火葬なんかに使うより、鉄鋼生産に使わせろ」と喚き立てる。火葬場の担当者が溶鉱炉と火葬炉では炉の構造が違うと説明しようが、聞く耳を持たない。「人体も鉄も同じだ。お前たちは超英�美の偉大な事業に反対するのか。反大躍進の大犯罪だ」といきり立つばかり。
それにしても、無知な農民に「人体も鉄も同じだ」と言わせてしまうわけだから、中国版「ハーメルンの笛吹き男」の威力は絶大無比ではあるが、やはり罪作りな話ではある。
最終的には地区の共産党幹部が仲裁に乗りだし、火葬場の庭に土法鉱炉を建設することで騒動は収まったわけだが、その時から火葬場職員は溶鉱炉の火入れ係りに変じてしまった。
やがて大躍進政策が破綻をきたす。だが、毛沢東は面子に掛けて政策を引っ込めない。そこに天災が重なる。当然のように飢餓地獄が全国を襲うことになってしまった。庭に土法鉱炉を作った火葬場にも、ひきも切らさず餓死死体が運び込まれる。
1960年後半の最悪期には、棺が足りず蓆に包んだまま炉に入れる。徹夜作業も珍しくなかった。当時の炉は旧式で、大部分が手作業。遺体を抱いて炉の中にもぐりこみ、遺体の周りに置いた可燃物に火を点ける。また炉に入って、骨を拾い集める。真っ黒になっての作業だったとか。
61年は春になっても田畑が芽をだす気配がない。誰もが野山に押しかけて樹の皮、草の根、雑草、昆虫・・・口に入れられるものは手当たり次第に取りまくった。かくて見渡す限りがハゲ山に。それでも山に入る。食い物を求めて這いずり回った末に息絶えてしまう。そんな餓死者の死体を民兵が山に入って収容する。余りの多さに、何体かを縄で縛り、ゴロゴロと坂を転がしたとか。火葬場はフル稼働。炉は故障するヒマさえ与えられなかったと言うから凄まじいばかり。
木々の伐採されたハゲ山は水を蓄える能力を失う。そこで山に降った雨は鉄砲水となって麓の村を襲う。洪水は田畑だけではなく農村の生活を破壊する。二次災害、三次災害、四次災害と限りがない。農民に待っているのは食べ物を求めての乞食行脚か、はたまた飢餓地獄。
62年に入ると、ついに恐れていたことが起き始める。人が人を食べはじめた。
山から運ばれた死体の大部分は五体がバラバラだった。太もも、腕、背中、尻・・・肉が食いちぎられている。極度の空腹を押さえるため「観音土」と呼ばれる土まで口に押し込んだ。ところが観音土は消化されない。腹に溜まりに溜まり、クソが出てこない。糞土の苦しみの末に人肉を食べ、腹のなかのものを押し出したとか。ウソかマコトかは分からないが、それにしても凄まじいばかり。《QED》