――習近平少年の読書遍歴・・・“あの世代”を育てた書籍(習23)
やがて大金持ちは国王と相談し、超肥満の大林を1人娘の王女と結婚させようとする。莫大な財産で未来の国王の椅子を買ってしまったというわけだ。
結婚式を前にしたある日のこと。魔法が解けて卵からヒトに戻った12人の男女の使用人は、「お前はオレたちに見覚えがあるか。死ぬほど働かされ、あわや喰べられそうになったんだ。クタバレ、このバケモノ」と叫ぶや、大金持ちを斬り殺してしまった。
一方、莫大な財産をそっくり引き継いだ大林は盛大な結婚式に臨むため、数十輌の豪華客車を連ねて海辺の別荘に向かった。その時、飢餓に苦しむ海辺の人々を救おうと立ち上がった人々が支援食糧を運んでくれと懇願する。もちろん、そんな話を大林が聞くわけがない。「貧乏人に構ってはいられない」とばかりに発車を命令した。
ところが運転士は決然と発車を拒否する。その運転士こそが弟の小林だったのである。小林は命令違反の罪で仲間と共に獄舎に繋がれるが、やがて多くの労働者・農民や知識人の支援を得て解放され、金持打倒・王国粉砕の闘いに決起することになった。
大林ら一行の乗った列車は動き出したものの、風に飛ばされて海の中へ。鯨に呑み込まれながらも黄金島に辿り着き、そこの黄金の全てを手にする。だが島には人が生きていくために必要な米も野菜も緑も水もない。悪運の尽き果てた大林は、黄金に埋もれながら死んで行くしかなかった。これこそ人民を責め苛むブルジョワジーの、腐敗堕落した当然の末路・・・めでたし、メデタシである。
巻頭に置かれた「内容提要」は、「旧社会統治階級の暗愚・無恥ぶりと労働者を圧殺する残酷な姿を辛辣な風刺によって暴露し、同時に光明を求めて不撓不屈の闘いを進める労働者の姿を描き出そうとした」と、作者である張天翼の執筆意図を賞賛する。
登場人物もストーリー展開も、ここまで予定調和が行き届いた物語を読まされるわけだから、子どもの真っ白な脳内に“共産主義革命的勧善懲悪史観”が深く刻み込まれたはずだ。かくして子どもは誰でも大林(ブルジョワ)ではなく小林(虐げられし労働者)に憧れる。いや正しくは小林になるように誘導(強制?)された、と表現すべきだろう。
ところで『大林和小林』の出版から半世紀ほどが過ぎた2005年、『大林和小林』と同じように境遇の違った兄弟の人生行路を描いた小説が出版されている。2004年にフランス芸術文化勲章を受賞した余華の『兄弟』(邦訳は『兄弟(上下)』文春文庫 2010年)だ。
『兄弟』は、バツイチ同士が結婚したことで兄弟になった2人の子どもの物語である
共に幼い息子を持った男女が結ばれるが、生真面目ゆえに文革の激流に巻き込まれ無惨な死を迎える。両親を亡くした兄弟は、血は通ってはいないが互いに助け合い、文革の荒波を乗り越え、やがて改革・開放の時代を迎える。
弟は図太く逞しく、利用できるものはなんでも利用してカネ儲けに邁進する。だが、実の父親に似て誠実だけが取り柄で不器用に生きることしか知らない兄は、轟音を挙げて猛進するカネ儲け至上社会の荒波に呑み込まれ寂しく死ぬしかなかった。必死ながら滑稽、それでいて明るく逞しく生き抜く中国庶民の姿を通し、文革から21世紀初頭までの中国社会のありのままの姿を面白おかしく活写している。
文革は庶民による庶民虐めであり、勝ち組と負け組とが目紛しく交代するグロテスクで残酷極まりない権力と暴力のゲームであり、改革・開放は「毛沢東思想」の軛を解かれた庶民が狂奔するカネ儲けゲームである――『兄弟』を貫くテーマだ。もちろん一貫してルールは共産党が定め、庶民は踊らされる損な役回りであるわけだが。
『兄弟』に対比するまでもなく、『大林和小林』は長閑な時代の革命童話であった。だが56年から57年へと年が変わると、血腥い激動の時代が始まることになる。《QED》