――「臺灣の事、思ひ來れば、感慨無量・・・」――田川(7)田川大吉郎『臺灣訪問の記』(白揚社 大正14年)

【知道中国 1970回】                       一九・十・仲四

――「臺灣の事、思ひ來れば、感慨無量・・・」――田川(7)

田川大吉郎『臺灣訪問の記』(白揚社 大正14年)

田川の批判の矛先は官吏のみならず一般企業にも向く。台中に設立直後のバナナ仲介業の青果会社を取り上げる。バナナの生産からから販売までの一切を支配下に置き、生産者の自由は許さない、というのだ。

ここに「臺灣の政治がある、臺灣人に對する日本人の概念、日本人の權威がある」というのだ。ところで社長以下日本人役員の俸給はベラボーに高額で、「贅澤千萬の沙汰、こゝに臺灣人の批評があり、その不滿があります」。そこで「それが公平でありませうか、適當でありませうか、正義でありませうか」と疑問を呈する。

かくして、この会社に関係する内地人は「臺灣人を、一切數字を知らない、愚人、皆くれ目の見えない盲目者と見なしての、計算、計畫であります」。「そこに臺灣人の不滿と不平が、深刻に殘ります」と糾弾し、「こんな事では、臺灣の産業は開發されません、臺灣の政治も發達しますまい、臺灣の前途は遼遠で、暗澹です」と結ぶ。

田川が指摘する内地人官民の振る舞いから判断して、日本統治は必ずしも一視同仁・厳格公正・万事善政・共存共栄であったわけでもなさそうだ。

辛口の田川だが、「總督府の度量衡の統一」と「總督府の、いきの通つて居る、公設質屋の事業」は大いに評価する。

前者は1989(明治31)年に総督に就任した児玉源太郎の抜擢で民政局長(後に民政長官)に就き、「生物学の原則に則った台湾統治」を掲げた後藤新平の強力なリーダーシップによって全島で進められた。度量衡を統一することで産業から日常生活まで平準化され、「惡い政府である、役に立たない政府である」ところの「從來の支那政府」が残した悪影響を一掃し、台湾を近代化への道に誘ったわけだ。田川は「その誠を以て當られたであらう」後藤の功績を大いに称える。

後者の公設質屋は明石元二郎の後任である第8代総督の田健治郎男爵(1919=大正8年~1923=大正12年)の進めた事業で、「要するに、壮大でない、派手でない、目醒しくない」が、「心から敬意を拂ひます」とする。ところが利用客は「割合に、内地人が多い」とのことだから、内地人の生活は存外に苦しかったということか。

当時、アヘンは台湾でも大きな政治問題であり社会問題だった。じつは台湾総督府は初代総督の樺山資紀の時代の1896(明治29)年2月に政府以外のアヘン輸入を禁止して以後、「漸禁主義を採り來つて居る」。だが専売によって得られる総督府の収入と吸飲者が及ぼす社会的マイナス効果を勘案すれば、やはり断固として「阿片斷禁」に踏み切るべきだ。そうしなければ民心を得られないし、「政治の威信は保てません」。

ここで田川は改めて「臺灣人の不平の原因」を整理した。

「一、租税が重いのが、其の一因でせう」。じつは「内地に較べては、重いとは申せませんが、舊臺灣に較べて重い、今日の支那に較べては、重いといふ譯になりませう」。

「二、警察官が、傲慢で、苛奪で、人民は其の生に安んじないと申すのです」。内地人警察官に加え、「その手先たる、臺灣の刑事達をも指して、その奸曲を憎むのであります」。とはいえ「我が警察のお蔭で、土匪は止み、偸盗は減じ、財産、生命の安全も、保障せられ、市面は靜穩に歸し、商賣は榮へ、臺灣人は、多大の恩惠に浴している」。そこで嫌悪感は次第に消えるだろう。だが、「その最も深刻なる、彼等の忘れ難い恨み、憤ふりはと言ふに、私は、彼等の見縊られ、侮辱され、差別的に待遇されている事だらうと思ひます」。

やはり「所謂戰勝者ぶりの倨傲にして、無禮な、昔で申す、斬棄て御免的の、橫着、身勝手な振舞は、我れ等内地人の間に、しばしば在つたのだと思ひます」となる。《QED》


投稿日

カテゴリー:

投稿者: