――「臺灣の事、思ひ來れば、感慨無量・・・」――田川(3)田川大吉郎『臺灣訪問の記』(白揚社 大正14年)

【知道中国 1966回】                       一九・十・初六

――「臺灣の事、思ひ來れば、感慨無量・・・」――田川(3)

田川大吉郎『臺灣訪問の記』(白揚社 大正14年)

田川は人々の生活を豊かにしている「日本三十年の努力」の成果を喜ぶものの、「日本人が、入り込んだゝめに、臺灣人が、贅澤に、華美に、遊惰になつたとは、謂はれたくないものであります」と付け加える。

次いで田川は東京留学経験を持ち30年ほどの付き合いのある台湾人商人を訪ね、日本による「三十年來の治政の變遷に就て」、忌憚のない意見を聞き出そうとする。だが、相手は「流石に世故に練れて居られる」から、そう容易くは腹の内を見せない。

台湾人商人は日本による統治を3期に分けていた。「第一期は領臺の初めより三十五六年まで、第二期は、三十六年頃より四十一年まで、第三期は、四十一年より今日まで」で、「第一期の當局者は、いづれも、誠實に事に當られたように感ずる、誠意が、よく認められた、第二期に至つて、それはやゝ變じた、第三期に至つて、又變じた」と語った後、「私はたゞ申します、第一期の頃の當局者の態度を思ふて、追慕の情に堪へませぬ」と。この時、「彼の面色には、やゝ、悵然たるものがありました」。

生真面目で、成功者で、「歷代の總督等に、相當の恩顧を蒙つた者」の「面色」に現れた「悵然たるもの」から、田川は台湾統治の実相の一端を読み取ったようだ。

彼を含む多くの台湾人に、「領臺以來、財を成した者は、幾人、その方法は、何であつたらうか」と問うたところ、「この問に對する、臺灣人の答へは、大概一致してゐました、曰く、その一人は、辜顯榮、その二は陳中和、その三は顔有年と」。

財産を築いた方法を見ると、「辜顯榮は、御用商人、彼は、樟腦の專賣事業に關係は無いが、その他の阿片にも、鹽にも煙草にも總て專賣事業に關係がある」。陳中和は「なにがし貿易商人の小僧」から身を起こし、「砂糖商人として財を成した」という立志伝中の人。顔有年は生まれ育った基隆北部の「石炭等に由つて富を得た」。「赤手にして、奮進し、遂に今日ある所に徴するすれば」、こちらも苦労人のようだ。

以上3人の企業家としての足跡や現状、さらに台湾経済の実態を知ったことから、台湾では「財を成した人が、頗る少い、又その高も、あまり多くない」と見た。そこで「臺灣の富は、概して内地人に領掠し去られて居るとの説は、此の邊から起るのか」と疑問を持つが、日本による台湾経営によって「民間の少資者、寧ろ無産階級」の間に「兎も角も、多大な富が放散せられ、彼等の生活状態は、多少なり、改善さるゝに至つたでせう」と前向きに評価もする。

「或所の歡迎會の席上」で、参加者の間から次の意見を聞いた。

「日本の天子は、一視同仁の思召を以て、この島民を撫育してゐ給ふ、然しながら、臺灣の官僚は、差別を設けて、吾々に臨んで居る」。「陛下の思召は、吾々の間に徹底してゐない」ところに、「臺灣島民の不幸」がある。内地から送り出された「有り難い思召の荷は抜き取られ、中身は缺けてゐた」。それということは「中途で誰かが胡魔化したのであらう、誰が胡魔化したか、官僚であるかも知れない」。彼ら官僚は「自家の功名、虛榮、權勢を誇らんために、いつか、この尊い、有り難い、一視同仁の思召を、抜き荷して居るのであらうか」と――

そこで田川は、「これを以て、臺灣人全體の感じと思ふのは、誤りであるかも知れ」ないが、決して特定の「少數者の感じに過ぎないと斷言」することもできない、と感じた。

日本の半世紀に及んだ台湾統治を暗黒・残虐・搾取だなどと捉え悦に入っているトンチンカンな“リベラル・左翼人道主義者”がいる。この種のバカは軽シテ遠避ケルに限る。だが「一視同仁の思召を、抜き荷し」た不埒なヤツは許すわけには・・・イカネエ。《QED》


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