――「由來支那國民は經濟的、然り利�的觀念が強い」――片山(2)
片山潜「支那旅行雜感」(大正14年)
片山が「内外綿會社のストライキ騒ぎ、丁度僕が上海に上陸した時はそのストライキが始まつて居た、が餘り世人は注意を拂はなかつた」と記した1925年末、�田は「第六回コミンテルン執行委員會總會(プレナム)に出席するため」に上海入りしている。
ならば�田は上海における片山の活動を十分に意識していたはずだが、奇妙なことに『わが思い出 第一部』には片山の「か」の字も見当たらない。おそらく�田は片山への言及を意図的に避けたのだろう。その背景に、片山のモスクワ生活末期における女性問題に対する日本共産党の“不快感”が潜んでいるとも思える。
それはさておき、「支那旅行雜感」は「五・三〇事件」前夜の中国をコミンテルン幹部としての立場から描いているだけに興味深い。そこで片山の見方を理解するうえからも、当時の全体状況を予め知っておく必要があるだろう。好都合なことに、�田が『わが思い出 第一部』で事件発生前後に言及していてくれた。そこで�田の記述を通して、当時の中国の政治状況を押さえておきたい。
1925年3月の孫文の死を、�田は「華北の革命運動をしばらく弱めたけれども、中國全體にたいする革命的高揚は決しておとろえず、彼の遺言は、革命を高揚させるために、力強いものとなった」と捉え、次いで内外綿会社の労働争議を起点とする動きを「上海の勞働者と學生の革命的團結はますます強くなつた」と見做している。
その後の動きを、『わが思い出 第一部』を引用して時系列に従って記しておく。
「一人の中國人の紡績勞働者が工場で監督のために殺されたため、これに抗議して勞働者と學生が平和的示威運動をおこなつた」。この平和的示威行進に向かって、租界を警備するイギリス警官が放った拳銃の一発が、「一九二五年五月卅日の出来事だ」。
「翌日、上海の勞働者は、これに抗議してゼネラル・ストライキを實行」する。その後は「數日間にわたつて廿萬人以上の工場勞働者がこれに參加し」、これに「手工業勞働者、官廳、商店の從業員學生、中國人商人などが合體し」たことで、参加人員は50万人に膨れ上がった。6月1日になると、「中國商人は全部店を閉め」、3日には「中國人の經營する銀行はすべて仕事を中止するまでになつた」。
�田は一連の動きを「勞働者、商人および學生から選出された統一的委員會によつて指導された」「反帝國主義ストライキ」と見做し、「この五・三〇事件の反響は、中國全土にわたつて反帝國主義解放鬪爭を高揚させた。(中略)運動は他の中心都市に波及して、漢口に、九江に、北京に、青島、南京、廣東に、全面的な大罷業が起り、中國共産黨ならびに國民黨の勢力を強大にしたのである」と評価する。
だが「上海の五・三〇事件をへき頭とする中國民族解放運動の嵐は夏ごろから反動をよびおこした」。「市内は戒嚴令が布かれ」、「勞働者のストライキはなお十月までつずいたが、その後はもはや繼續する力を失つた」というのだ。
――以上が�田の見解である。
対する片山は「支那の勞働運動は、�々發展の望みがある、第一今日學生は勞働問題及社會問題の先駆者で」、「彼等は實際の首領となつて罷工の盡力をするのが常である」と捉える。どうやら学生が指導していると思われる内外綿会社における労働争議を、「(租界における)英米の官憲は私かに喜んでる」。加えて「(日本以外の)資本家は痛快を叫ぶと云ふ風であつた」。また租界内での事件であればこそ、「一般支那民族は關せず焉であ」る。
「支那の勞働運動」が前門の虎なら、上海租界の「英米の官憲」や「(日本以外の)資本家」は後門の狼だろう。前後を敵に囲まれ、内外綿会社は苦戦を強いられたわけだ。《QED》