――「浦口は非常に汚い中國人の街だ」――�田(9)�田球一『わが思い出 第一部』(東京書院 昭和23年)

【知道中国 1954回】                       一九・九・仲二

――「浦口は非常に汚い中國人の街だ」――�田(9)

�田球一『わが思い出 第一部』(東京書院 昭和23年)

アメリカとの間で「単独作戦行動はしない」「兵力は双方ともに8000人程度」などを取り決め、1981年夏、日本は赤軍の東漸を押さえるべくシベリアに出兵する。これに米・英・仏・加・伊・中(中華民国)などが続き、�田が「ツアール軍隊」と呼んだ白軍支援の戦いを展開した。1918年11月に起こったドイツ革命によって第一次大戦が終結したことで、シベリア出兵の目的は失われ、多くの国は撤兵する。

日本は作戦区域をバイカル湖の西に位置するイルクーツクまで拡大し、戦線を維持した。だが、肝心の白軍が瓦解したこともあり、1922年に撤兵する。この時、当初予定を遥かに超える広大な地域を占領したことで、日本は参加各国から領土拡大の野心を疑われた。それが、以後の日本外交にマイナス要因として働いたとも見られる。

�田に依れば、「ソヴエト赤軍が滿州の日本帝國主義軍隊を疾風のごとく破碎したとき」、「ツアール軍隊」は「いち速くソヴエト軍隊を名乗って殘虐を試みた。強盗、強姦まつたく目にあまることをやつたのである」。「ソヴエト軍が囚人軍を使つたと滿州から歸つた反動的日本人がいいふらしているのは他でもなくこのツアール・ロシアの殘物共のしわざである」とのことだが、さすがに�田は共産主義者である。「日本帝國主義軍隊」「滿州から歸つた反動的日本人」、それに「ツアール軍隊」は飽くまでも悪であり、「ソヴエト赤軍」は断固として善であり正義であらねばならなかった。

モスクワを目指す�田はハルピンで中東鉄道(西部線)に乗車し、チチハル、博克図、ハイラルを経て蒙古との接点である満洲里へ。小さな満洲里駅は厳重に警戒され、駅舎の外には「日本の憲兵が二人ながい刀をブラ下げて長グツをはいて狼のような眼をしてギヨロギヨロ私を見ていた」そうだが、ならば�田も大きなギョロ目で見返したのだろうか。

日本式旅館に入った。そこでは「たしかに日本人だが朝な夕にバクチは打つ、酒は飲む、まるで無頼漢や暴徒のあつまりみたようなかつこうだつた」。そこで「長居は無用」と荷物をまとめ、「約束している同志のところをたずね」たことで、「何となくソヴエト同盟入りの目的をその日のうちに達したのである」。

ここで話は、すでに述べた「一九二二年の四月中旬、ゴビの砂漠を越えて張家口に入」った頃に移る。つまり�田は満洲里での「ソヴエト同盟入り」してからイルクーツクから外蒙古に入るまでのソ連における活動については――おそらくは意図的だろうが――記してはいないことになる。

張家口から北京にむかう途中で、鉄鉱石の産地で知られる宣化に立ち寄る。「日本帝國主義が中国侵略の後、この鐵鑛石を大々的に開發する計畫を立てて相當仕事をしていたようだ」。

やがて北京へ。「城壁には上にも入口にも出口にも相當の部隊が劒つき鐵砲で警備したいた」。張作霖軍の兵士だったと思われるが、「例によつて無感覺の顔をして、だらしないかつこうでブラブラしているだけだつた」。やはり�田は中国の兵士に好印象は持っていない。

北京の中央部で宿を探す。外見は中国風だったが、「中は相も變わらず日本風になおしてタタミを敷いた日本座敷だつた」。そこで�田は「日本人はどこまでいつても、その風土にも氣候にもとん着なく日本流の生活をしなければ我慢できないとみえる」。どうも�田の目には、日本人はおしなべて無頼漢でグズに見えたようだ。

「權力の鐵の威嚇以外には何ら經濟的基礎を見いだしえないで、封建主義のたい廢してゆく悲哀を發散しているにすぎない」北京に、�田は「陰慘な氣持ち」を抱く。堅固な城壁が物語るように、北京は「大衆を威嚇しているけど内容はまつたく空つぽ」だった。《QED》


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