――「浦口は非常に汚い中國人の街だ」――�田(7)
�田球一『わが思い出 第一部』(東京書院 昭和23年)
凍結した糞尿を車内販売用のお茶を沸かす装置で解凍し、外部に垂れ流そうというのだ。“目に染みる”ほどの悪臭に苦闘しただろう�田は、「(悪臭が)お茶と一緒になつているという所に中國人のニオイや食物にたいする無關心さがあるのだろう。習慣というものはおそろしい」と苦虫を潰す。悪臭は、極東民族大会に参加すべくモスクワに向かう未来の日本共産党トップを襲う。だが、後には長期に亘って臭い“もっそうメシ”にお世話になることを考えると、�田の人生は臭いモノと切っても切れなかったということか。
列車が中国と満洲とを限る山海関駅に到着するや、プラットホームで「一連隊ほどの軍隊がずらりとならんでいた」。「まつたくだらしないささげ銃」の兵士に迎えられて列車から降り立ったのは「中肥りの顔のだらりとした男」。満洲の実力者で知られた「黒龍江省督軍張某」だった。
�田は食堂車での「いやまつたく驚くべき」風景を綴る。
食堂車の半分を占めた一団の中央に「例の將軍がゆうゆうと坐つていて長いキセルで煙草をふかしている。その周りには二十歳から四十歳位の女が五、六人も並んでいる。第一夫人から第五、六夫人までだということだつた。その反對側に彼の幕僚であろう十四、五人が二列三列にだらしない恰好でテーブルを圍んでいる」。「ガチャガチャとマージャンをやつているのだ」。そのうえ「これらの夫人や幕僚のそばには札の束がおいてある」。つまり、そこは「全くのバクチ場だ」った。しかも「外國人の客が食事をしているその隣で公々然とやつているのだ」から、やはり「ここに妙味があるのではないか」。
「その當時の中國の軍閥の首領の生活がこれである」。であればこそ「戰爭のできないのも當然であつた」。しかも「妾連中のドロンとした恰好はすべて阿片飲みの特徴」を表している。かくて�田は、「結局軍隊はりゃく奪のための、そしてまた戰爭ごつこの示威運動の道具以外には役立たないことが明かではないか」と。
列車を離れた�田は、子供の時から気になっていた山海関に足を向けた。「どんなに素晴らしい大きな關所だろうか、どんな大きな城と連なつているのだろうかと想像していた」が、実際に目にして「貧弱なので呆れてしまった」。「かくべつ城らしいものはなくて、(中略)山海關の大きな石垣の壁がぶち抜かれてトンネルになつているだけだつた」と落胆の色を隠さない。
じつは�田だけではないのだが、多くの日本人は中国の「城」を、天守閣を構えて豪壮・華麗な日本の城と勘違いしている。彼らの指す「城」は城壁であって、日本式の城郭ではない。北京城、南京城・・・鳳凰城などなど。中国では都市を「城市」の2文字で表すが、それは「城壁」に囲まれた内部で人が「市(あきない)」をするからである。
ところで改めて�田は豪壮で長大な万里の長城を作り上げた始皇帝時代の力と共に、「これほど古代の實力のあつた大帝國のすべてが今は世界を通じての最も發達していない國におちていること」、さらには「中國はたいへんなどろ沼の中にいつまでも停滯していたという事實」にも驚嘆する。
長城建設には「ばく大な人間勞働力を無茶苦茶に使つた」。「つまり奴隷制度によつて人間勞働力を驅仕した」。「その奴隷的な状態がいつまでも農村に停滯して、それを基礎に軍事的彈壓が重ねられていつたためすべての成長が停滯した」。それゆえ「被支配階級に蓄積された力が、つねに革命によつて高進し、しだいしだいに下から上までのしあがつて行く――換言すれば革命が階級の解放をもたらし、つぎつぎに發展して行く」。「私がこの長城をみて人類解放のための革命の必要を一層深く痛感した」。流石にトッキュウだ。《QED》