――「支那人は巨人の巨腕に抱き込まるゝを厭はずして・・・」――中野(19)
中野正剛『我が觀たる滿鮮』(政敎社 大正四年)
満鉄創立以来、「官僚の乾兒」が経営中枢を押さえながら、じつは「無主義無定見にて、百の施設盡く國民の期待に愜ふこと能はず、甚しきは巨資を抱きて、奇々怪々なる伏魔殿を造り出せし從來の爲體は、吾人の説明を要せずして天下の憤懣に堪へざる所」だった。そこで大正2(1913)年に政友会総裁の原敬の命によって、伊藤大八(安政5=1852年~昭和2=1927年)が副総裁として満鉄に送り込まれたのである。
だが、その伊藤にしてからが「其漫然として定見」がないだけでなく、政友会そのものが「大陸政策に於て、無識、無定見なること、毫も伊藤其人」と変わらない。
じつは副総裁として満鉄に乗り込んだ伊藤は創立以来の慣行である経営首脳による合議制の廃止を目指したが、役人出身の犬塚信太郎理事らに阻止され罷免に追い込まれている。合議制などという日本式経営方式では満州への攻勢を強めるロシアに即応できないにもかかわらず、である。昔も今も、我が官僚の行動様式は一貫して変わらないということか。とどのつまり伊藤は「官僚的積弊」の「鬱結せし滿鐵」から弾き飛ばされたわけだが、それというのも「唯深く滿洲の事情を極めず、我帝國の根本政策を確定せずして、漫に目暗滅相」に満鉄経営に「大鉈を振」おうとしたからである。
満鉄は「尋常一樣の營利會社」ではない。「彼の國民の血と、國家の財とを絞り盡したる日露戰爭の結果」として得られた僅かな利権――関東州と数本の満鉄路線のみ――を経営する会社である。近年になって「滿蒙經營」が叫ばれるようになったが、「要するに滿鐵及び滿鐵附屬地」こそが「我國に取りては滿洲の全部」ということになる。その満鉄は「英佛の東印度會社の如き、優越なる權限」を持つ。だから「滿鐵は、滿蒙の發展の血脈となり、策源地となりて、大活動をなさゞる可からざるこのなし」。たしかに日本には、「經濟上の大陸政策までも放棄して、文藝家の所謂小日本主義に安んず」べしとの声もあるが、周辺状況を考慮しても、いまこそ「滿鐵は益々國家に代りて、我國民の發展を誘導すべき重責を課せられた者」だ。
ここで「所謂小日本主義」について若干の解説をしておきたい。
日露戦争直前、幸徳秋水は『週刊平民新聞』(1904・1)に「小日本なる哉」と題する一文を掲げ「大国をうらやむことなかれ、大国の民はいずれも不幸なり、これに反して小国の民は皆幸福なり」と主張し、反戦を訴えた。秋水に続いて反戦論を展開した内村鑑三は個人雑誌『聖書の研究』(1911)で「デンマルクの話」を展開し、「国の興亡は戦争の勝敗によらず、国民の平素の修養に左右される。外に広がるよりは内を開発すべき」と説き、小国たるデンマークこそ日本の手本とすべきことを説いた。
幸徳、内村に続いて小日本主義を掲げたのは『東洋経済新報』に拠った石橋湛山(明治17=1884年~昭和48=1973年)である。石橋の主張を要約するなら、対外政策としては領土拡張や保護政策を採らず、内政整備と民間個人の活力により国民福祉増進を目指す考えである。たとえば日露戦争を機に友好から対立へと転換しつあった日米関係において発生したアメリカにおける“日本移民排斥問題”に関し、政府・外務省の弱腰外交を強く叱責する国論に抗し、石橋は「移民の要なし」の論陣を張った。
当時、国内では官民ともに人口過剰を問題視し、それを解決すべく対外移民を奨励せよなどの議論が盛んだった。これに対し石橋は、人口過剰という考えは誤りであり、商工業発展・交通手段進歩により貿易が容易になった。帝国主義的政策を推し進め「大陸発展」などして他国を刺激する必要はない――と主張した。
こうみると、中野が「文藝家の所謂小日本主義」と軽蔑するのも肯けるだろう。《QED》