――「支那人は巨人の巨腕に抱き込まるゝを厭はずして・・・」――中野(15)
中野正剛『我が觀たる滿鮮』(政敎社 大正四年)
以後、中野の満洲改造論が詳細に展開されるが、要は満州経営の拠点を長春に移せということ。それというのも「長春は大連、釜山より哈爾濱に至る大線路と、清津より蒙古に入る大線路との交叉點となり、優に經濟上の大中心地となり得」るだけではなく、「露國の哈爾濱と相對立するを得」ることで、「日露の勢力境界線」と位置づけることができるからだ。中野にとって満蒙経営は、やはり対露戦略上の重要課題であった。
中野は北上し吉林に至る。「嗚呼京都に似たる吉林」「連なる屋甍も甚だ麗はしく揃ひて、毫も所謂支那街の穢らしき形體を有せず」と記しているところからして、吉林に魅せられたらしい。
吉林在住日本人は400人余で、「中に七十餘人は忌まはしき醜業婦なりと云ふ」。400人中70人とは6人に1人になるから、日本にとっての最前線における彼女らの“役割”は「醜業」の2文字では表現し尽くすことは出来ないだろう。
吉林に領事館が設置されたのは明治40年以降。だから「日本人の活動地としては、滿洲中最新」である。鉄道の附属地が設置されていないから、「滿鐵の行政なく、都督府の干渉なく、又我一兵をも有せずして、住民は直接支那人及び支那官憲と相對して、或は彼等の保護を受け、或は彼等に向つて權利を主張」しなければならない。そこで日本側は「官民一致して相助け相倚り、支那人に對しても却て良好の關係を持續しつゝあり」。
「領事あり、附屬地あり、滿鐵あり、都督府あり、守備兵ある滿鐵沿線に於て、却て住民の怨嗟の聲あるに反し、何等我行政權の及ばざる吉林に於て、住民相助け、外は支那側との交渉さへ、遺憾なきに近し」ということは、やはり満鉄(政府)、都督府(陸軍)、領事館(外務省)の「三頭政治の、如何に惡政なるかを察すべきなり」とした後、中野は「惡く治むるは、寧ろ治めざるに如かざるなり」と綴った。
満洲各地を歩き「大陸の雄大を感」じた中野は、一方で「滿鐵の遺利を拾ひ、或は同胞と共喰ひする日本人は、小さくして鼠の如き」姿に、「地形の雄大なるに比して、日本男兒の齷齪たるを情けなく思」ったのである。
この街で偶々、徒手空拳ながら「支那を遊歷して利源を調査せんと欲し」て北海道を発ち、上海に上陸し「南清北滿を經廻り」ながら調査を続ける福島生まれの青年に出会う。言葉も出来ないし資金もない。行く先々で働き口を見つけては最低限の生活を続けながら日本の将来を考える若者に接した中野は、「新日本の前途は此徒の肩に懸る所多し」とした後、資産家が資金を与え海外に送り出し前途有為の若者を鍛えるドイツの姿を紹介し、“この一瞬のカネ儲け”に腐心する日本の資産家を嘆き、さらには「今日滿蒙に於ける我利權確立せずとて、面白半分に狂躁する徒輩」が「日比谷松本樓の酒に醉ひな」がらオダを挙げる姿を嘆く。つまり国内に留まって、国威発揚・国益擁護を“酒の肴”にしているようでは国益の伸張は覚束ないということだ。
「露國は實に久しき以前より」、福島生まれの青年のような有為の若者を「外蒙一帶の要地に派出し、土地、風俗、人情、物産、交通等を詳らかに調査せしめ、公然の談判を開きて蒙古を支那より分離せしむる以前、夙に其内を露國化せしめたるなり」と、ロシアの用意周到な外蒙取り込み策を示したうえで、「日本は東亞の君子國、固より虎狼の國に學ぶべきに非ずと雖も、軍國主義と稱せらるゝ露國すら、其政治的に蒙古に進むに先だちては、第一に風俗、敎育、習慣の移植に於て、支那に勝ち、支那を壓し、支那を驅逐せしを思はざる可からず」。現在、外蒙人が内蒙に送り込まれ、その後方にロシアが控えている。であればこそ「内蒙を維持するは支那の急務」であるばかりか、「日本の權利なり」。《QED》