――「支那人は巨人の巨腕に抱き込まるゝを厭はずして・・・」――中野(11)
中野正剛『我が觀たる滿鮮』(政�社 大正四年)
吉林で中野が目にしたのは、「我外交當局者が、自ら成功なりと吹聽して甚だ得意の色ある滿蒙五鐵道」の1つである吉長線のテイタラク、いや惨状だった。
そもそも吉長線の組織は「英支の合辨たる京奉線」に範を取ることになっていた。「英國は其資本的勢力を張るべく、權利の大綱を握るを主眼」とし、「工事と會計との權を其手に掌握し、英國の投下せし資本を有利に運用するなり」。だが、「例によりて日本名物の退讓卑屈的態度を執り、着々として失敗の跡を暴露しつゝある」始末だ。日本とするなら「政治的に經濟的に我國自衞の途を安全にせんと欲せば、滿洲を確保して之を開發せざる可からず」であり、「滿洲を開發せんと欲せば、我が僅に有する一脈の勢力線たる南滿鐵道を涵養せざる可からざるなり」。
そもそも吉長線の建設に関しては、「技師長は日本自ら日本人を選任し、會計監督は支那側より日本人を選任すべき」とされていたにもかかわらず、「支那は形式上の官辨を楯に取りて、毫も我主張を聽か」ないばかりか、「我技師長も會計監督も」臨機応変に「意見を貫徹の器量」がないから、「起工中より既に大なる我不利」を被っていた。「先ず鐵道總辨は支那人一流の不正手段を講ずるを以て第一の目的となし、利を攫みては去り、更に任ぜられては又不正を以て免ぜられ、數次總辨の更迭せる間、資金の喰潰されしもの幾何なるを知らず」。日本側の会計は帳簿上の帳尻合わせに汲々とするばかかりで、技師長は「彼の不正吏員の命令」を受けて「技術上の設計に從事するのみ」という有様だ。
「斯くして不正行はれ、斯くして工事上の浪費多く、辛うじて大正元年十一月に至りて列車を運轉するに至りしも」、まともに列車を走らせることはできない。「路線を改良し、不完全の點を除かんと」するなら、日本側はさらに莫大な資金を投じなければならない。日本側主導でまともに建設していたら、「我より提供せし二百十五萬圓のみにて、美事に全線の工事」は完了していたはずなのである。なんたる浪費だ。
それにしても「日本名物の退讓卑屈的態度」を見越したうえで「支那は形式上の官辨を楯に取りて、毫も我主張を聽か」ないばかりか、我が方責任者は「意見を貫徹の器量」がない。かくして「不正手段を講ずるを以て第一の目的」とする彼らは、最初から狙ったように「利を攫みては去り、更に任ぜられては又不正を以て免ぜられ、數次總辨の更迭せる間、資金の喰潰されしもの幾何なるを知らず」というのだから、切歯扼腕したところで“後の祭り”だ。
所謂「日中国交正常化」の後、日本は有償無償の別なく莫大な借款(国民の血税!)を行なってきたばかりか、民間もまた中国市場に天文学的金額を投じてきたはず。だが「日本名物の退讓卑屈的態度」が改まらないからこそ、「資金の喰潰されしもの幾何なるを知らず」といった惨状に立ち至った例は少なくないだろう。
たしかに「不正手段を講ずるを以て第一の目的とな」す「支那人一流」の行いは最悪であり、断固として許すわけにはいかない。だが、それ以上に猛省すべきは、中野の時代からはじまって現在に至るまで(ということは未来においても?)一向に改められない「日本名物の退讓卑屈的態度」であり、「意見を貫徹の器量」のないことだ。
吉長線建設という合弁事業に際し日本が範とした「英支の合辨たる京奉線」において、イギリスは「退讓卑屈的態度」を毫もみせることなく「工事と会計の權」を完全に抑えた。かくして「支那人一流の不正手段を講ずる」ことなど出来る筈もなかった。なぜ日本は「工事と会計の權」を握りながらも、「支那人一流の不正手段を講ずる」ことを防げないのか。なぜ「日本名物の退讓卑屈的態度」を猛省し、根本的に改めることができないのか。《QED》