――「支那人は不可解の謎題也」・・・徳富(3)
徳富蘇峰『支那漫遊記』(民友社 大正七年)
「今尚ほ四十三歳の、分別盛りの壯年」である張作霖との面談を終えた徳富は、「九月廿八日午前一時半、秋氣凄々たる月光を浴びつゝ、哈爾賓行の急行車に上」り、朝の9時半に長春駅に到着。「此處が南滿線の極北端也」。小休止の後、寛城子停車場でロシア側経営東清鉄道に乗り換え、ハルピンに。時はロシア革命の最中である。停車場も車内も「露國内の秩序紊亂」を反映するかのように乱れていた。
ハルピンまでの車窓からの眺めを、「滿目の平原、茫々として大海の如し。其の時に岡坡の悠長に起伏する、宛も大海の大うねりの如し。而して落日の漸く地平に下らんとする、初めは半天に琥珀色を劃し、次ぎには黃金色となり、而して最後に眞紅血の如し、眞に美觀也、壮觀也。返すがえすも滿洲の落日は、何とも云はれぬ絶景也、然も富岳の日出と、満洲の落日との優劣に至りては、世上必ず議論あらむ」と綴る。こういった調子の文章に心躍らせ、おそらく当時の血気盛んな若者は「狭い日本にゃ住み飽きた」と満洲に憧れたのであろう。「富岳の日出」か「満洲の落日」か。何れを「絶景」というべきか。
やがて「予は此の落日と與に、始めて哈爾賓に入れり」となる。
「哈爾賓に就て語らんには、一巻の書物も尚ほ不足す可し」と、徳富はハルピンについて語り出す。
「蓋し此地は、露國が極東經略の策源地として、故らに製造した都府にして、然も其の見當は全く外れざりし也」。東清鉄道(東部線)を東に進めば綏芬河(ボグラニーチナヤ)を経てウラジオストックへ。同じく東清鉄道(西部線)を西に進めハイラル、満州里を経て外バイカル鉄道の要衝・チタに。さらに進めばイルクーツクからモスクワ、ペトログラードへ。南下すれば長春、公主嶺、奉天など満洲南部の心臓部を貫いて大連に至る。街外れを流れる松花江を下ればアムール河、ウスリー河などシベリア東部の大河に繋がり水路の便も良好だ。当初、ロシア側はウラジオストックと不凍港・大連を軸に、鉄道・港・海運による「三位一体の交通システム」の構築を目論んでいたという。だとするならば、ハルピンはヨーロッパとシベリア、満洲、それに太平洋をネットワークするロシア版の「一帯一路」の中心といえないこともないだろう。
そんなハルピンの一角に「支那人の集りて市街成す」。傅家甸と呼ぶ同地は「露國行政區域外にして、支那人の自治に一任し」ているが、ハルピンでは「最も繁昌の中心たるが如き觀あり」。この傅家甸における彼らの生態を、徳富は次のように綴っている。
「實に支那人は無頓着の人種也、無遠慮の人種也、苟も餘隙さへ見出せば、何時にても這入り込むを遲疑せざる人種也。或る意味に於ては、露國は支那人の爲めに、一の商業地を經營して、之を寄贈したりと云ふも、不可なき也。而して是れ豈に單り露國のみと云はん哉」。
21世紀初頭の現在、仮に徳富がシベリア各地の中国寄りの都市を歩いたとした、おそらく同じような感想を抱くに違いない。あるいは徳富は、華僑・華人のみならず、殊に1978年末の対外開放以後に海外に「走出去(とびだ)」し、世界の各地に住みつく中国人の姿を予見していたともいえそうだ。「無頓着」で「無遠慮」に加え「苟も餘隙さへ見出せば、何時にても這入り込むを遲疑せざる人種也」とは、けだし名言だ。彼らに『論語』も『孟子』も『史記』も、ましてや『朱子語類』なんぞは全く不必要なのだ。
ところが、である。ロシア人は「三人前以上の大食者にして、半人前程の働きもせず」。「此れは酷評ならんも、露人の能率の低下なるは、恐らくは支那人の好敵手たらむ」とか。こんなロシア人やら支那人を相手にするわけだから、日本人は堪ったものではない。《QED》