――「支那人は不可解の謎題也」・・・徳富(2)徳富蘇峰『支那漫遊記』(民友社 大正七年)

【知道中国 1777回】                       一八・八・仲八

――「支那人は不可解の謎題也」・・・徳富(2)

徳富蘇峰『支那漫遊記』(民友社 大正七年)

 奉天は「今春以降、頓に活氣を加へつゝありとは、間違なき話ならむ」とした後、「内地政府の一歩前進は、在外邦民の百歩前進を意味し、一歩退却は、百歩の退却を意味する」。「滿洲に於て、既に特殊の位置を、世界列強より識認せられたる我國は、今少しく根本的に、世界の期待に應ずる」ためにも、「我が經綸を徹底的に實行するの力」を「統一」し「集中」し「發揮」すべきだと説く。

「今春」、つまり大正6(1917)年春の主な出来事を拾ってみると、1月11日には第一次世界大戦が勃発し、3月15日にはニコライ2世が皇帝を退位(ロマノフ王朝滅亡)し、国家臨時委員会が臨時政府を樹立している。4月4日には日本がロシア臨時政府を承認し、半月ほどを経た4月17日にはロシアに帰国したレーニンが「4月テーゼ」を発表し、ソビエトによる権力掌握の大方針を打ち出た。

 「頓に活氣を加へつゝあり」の根拠をどこに置いているのかは不明だが、徳富は「滿洲に於て、既に特殊の位置を、世界列強より識認せられたる我國は、今少しく根本的に、世界の期待に應ずるの施設なき乎、否乎」としている。革命によるロマノフ王朝崩壊とそれに続くロシアの混乱によって北方からの圧力が減じたことを奇貨として、満洲における日本の立場を確固としたものにすべきだといった辺りが、徳富の腹積もりではなかったろうか。であればこそ「内地政府の一歩前進は、在外邦民の百歩前進を意味し、一歩退却は百歩の退却を意味す」るわけであり、かくして「今日の急務は、其力(「我が經綸を徹底的に實行するの力」)の統一にあり、集中にあり、而してまた發揮にあり」となるわけだ。

 「奉天にて見物に値ひする」ところの2つのうちの1つである張作霖との面会を、早い時期の陸軍支那通の1人である菊地大佐の紹介で果たしている。

 「豫て馬賊の親方にて、手から銃殺の刑を行ふ程の荒男と聞き、定めて水滸傳中の人物らしからんと思ひたる」が、豈はからんや「瘦肉黃面、寧ろ支那大官流の大黑樣然たる福相とは、正反對」で、「ピヨコピヨコ然と小男來り、握手」した人物が張作霖だった。「眼細く、人と對話する時には、正視せず、稍や橫に向く風あり、聲極めて小、但だ眼に底光りあり、聲に抑揚あり、顔面稍や緊張の風あり。而して談話の際に往々佗の急所を衝かんとするの機辨あり、又た汝は汝の思ふ如く思へ、我は我がふ如く行はんと、云ふが如き趣ある點に於て、聊か這漢の本色を見る」ようだった。

 徳富は張作霖との間で交わされた会話の詳細を記してはいないが、張作霖は「怖獨病に罹り、獨露同盟して、北滿より直下し來らば如何抔と語」る一方で、「日本政府の態度の曖昧には閉口するとて、頻りに怨言を漏らせり」。彼が支配下に置く盛京省(現在の遼寧省)の年間経費の70%は軍事費というのも、「萬事を差し置き、唯だ兵を養ふ」ためである。だが「其兵が國家の兵にあらずして、張本人の私兵たること勿論也」。それというのも、「吉林の孟督軍、黑龍の鮑督軍を操縦して、自から東三省」、つまり満洲全域を押さえることを狙っているからだ。この時、張作霖は「今尚ほ四十三歳の、分別盛りの壯年」だった。

 どうやら徳富は、張作霖が単なる「馬賊の親方」ではなく、いずれは満洲全域に覇を唱え得る人物と見做していたようだ。それにしても「談話の際に往々佗の急所を衝かんとするの機辨あり」やら「汝は汝の思ふ如く思へ、我は我がふ如く行はんと、云ふが如き趣」といった人物評は興味深い。「ピヨコピヨコ然」とした「小男」ながら、相手の「急所を衝かんとするの機辨」があるだけではない。「汝は汝の思ふ如く思へ、我は我がふ如く行はん」とは、曹操の「寧可我負天下人、天下人不負我(オレが天下に背いても、天下を俺に背かせない)」の“心意気”に通じるものがある。「馬賊の親方」に一癖も二癖もあり。《QED》


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