――「支那を亡すものは鴉片の害毒である」――上塚(12)
上塚司『揚子江を中心として』(織田書店 大正14年)
湖南省における春原の孤軍奮闘振りから、上塚は「海外に於る事業家の苦心」に思いを致す。
「海外に於る企業家の苦心、犠牲、其の多くは本國に知られずして葬らる。未開の異郷に於て、異國人を相手とし、赫々たる事業の大成を見る迄には、其の蔭に果して幾何の犠牲が捧げらるゝぞ。然るに、此の燃ゆるが如き國家愛と事業慾より、身命を賭し、勇奮して虎口に飛込む人々の心意氣も、本國の資本家や當路者には何等の感興をも與へず、如何に容易に蹂躙されつゝある歟。吾輩は日本國民が、此等海外に於ける開拓者に向つて更に多くの涙を以て接せん事を切望に堪へず」。
かく上塚は義憤を隠さないが、どうやら当時から「燃ゆるが如き國家愛と事業慾より、身命を賭し、勇奮して虎口に飛込む人々の心意氣」は、「本國の資本家や當路者には何等の感興をも與へ」なかったらしい。海外雄飛、今で言うなら国際化の道は日本人にとっては絵に描いたモチ、あるいは陽光を浴びた道路の先に現れる逃げ水――前に進むほどに遥か前方に行ってしまい遂には捉まえられない――のようなものだろうか。
岳陽楼見物の後、漢口を指して長江を渡るべく長沙の停車場に至る。
「構内は待合も、プラツトホームも悉く武装せる軍隊に占領せられ、一般乘客は此等軍隊に脅かされ乍ら一隅に畏縮れり。兵士の多くは無智にして暴慢、掠奪凌辱の常習犯なり。其の武器を擁して良民に對するや、慘忍無動求むる所、之を得ざれば飽かず、若し其の命に反せんか、凶手忽ちにして頭上に下る。ホームに立てる人々の眼の如何に懼戰るかを見よ」。まさに「好鉄不当釘、好人不当兵(良い鉄はクギにならず、良い人は兵士にならない)」のである。
いよいよ「上海より大江を遡る事六百有餘里、漢水の長江に注ぐ三叉點に、江を隔てゝ武昌と相呼び、水を劃して漢陽と相應ふる」ところの漢口に到着する。同地は長江の中流に当たり、四川、貴州、陝西、河南、湖北、湖南の接点に位置し、また長江下流との物流のハブでもある。かくして「諸外國人競うて極東の遺利を拾はんとして來るに及んで、漢口の通商は、�々繁榮するに至つた」わけだ。
日清戦争の敗北に因って清国が眠れる獅子であることを知った西欧列強は、「相爭うて長江一帶の利權獲得に大活躍を始め、茲に楊子江流域の地は世界外交の舞臺と變じ、漢口亦注目の焦點たるに至つた」のである。
その後、重慶が対外開放されて長江水運によって漢口と結ばれ、やがて長沙など湖南省の要衝が外国に向かって開かれたことから、「固陋自尊を以て知られたり湖南の人士をして自由に文明の空氣に浴せしめ」ることになった。
いわば日清戦争敗北を機に、清国は列強諸国の圧力を前に長江流域の重要内陸港を次々に対外開放せざるを得なくなった。その中心である漢口では「開港以來諸外國は其の勢力の扶植に腐心し、英、露、佛、獨、日の五國相次いで租界を建設する等、鋭意劃策し、從て各國の商社、工場等逐年其の數を増加するに至つた」。
列強諸国のこのような動きに応じて、「久しく廢頽困眠の中に在りし(長江)沿道の各省に新活氣を與へ、地方富源の開發を促せると共に一般人の購買力を増大せるのみならず」、漢口中心の商圏を確立したのである。「斯くして漢口は今や上海大連に次ぐ支那第三位の貿易港として�々其の前途を嘱せられ」、近接する武昌、漢陽を合わせて人口146万人余の大都会に変貌し、「『東洋のシカゴ』『支那の大阪』と評せらるゝに至つた」のである。
「固陋自尊」「廢頽困眠」をブチ破る対外開放の威力は、昔も今も同じようだ。《QED》