――「支那を亡すものは鴉片の害毒である」――上塚(5)上塚司『揚子江を中心として』(織田書店 大正14年)

【知道中国 1987回】                      一九・十一・仲九

――「支那を亡すものは鴉片の害毒である」――上塚(5)

上塚司『揚子江を中心として』(織田書店 大正14年)

 いまから100年前の大正8(1919)年の2月20日から3月15日にかけて、上塚は「南支那沿岸航路殊に臺灣福建省方面の調査」を敢行した。近代中国精神史上の節目となる五・四運動が起きる直前ということになる。

 ここで上塚は「福建省が我領土臺灣の對岸にあり、然も支那に對し不割讓を約せしめたる特殊地域なるにも拘はらず、我が商權の萎靡甚だ振はざる事」が、「最も痛切に吾人の記臆を衝」いたと記す。福建は「山岳重疊地味磽?にして、交通未だ開けず」、そのうえ名産の福州茶以外に有力な物産はみられない。そこで我が国との貿易関係は希薄であり、商工業者は余り関心を示さない。

 だが「福建の二大開港場たる福州、厦門兩港の總貿易額」は急拡大している。貿易市場としては決して「貧弱なりと云ふべからず」。にもかかわらず、その多くを香港や上海に拠点を置く英米人に押さえられている。それこそ「吾國當業者の努力未だ十分ならざるの證左」であり、「列國擧て海外商權の獲得に急なる今日、尚依然として此の状態を經續するが如きあらんには帝國貿易業者の甚しき恥辱と云はざる」を得ない。

 日本側の貿易が振るわない主たる原因は、「福建省は一衣帶水直に我臺灣と相接し」ているにもかかわらず、台湾と福州、あるいは厦門を結ぶ便船が少なすぎることだ。これに対し「英、支兩國の出入り繁多」である。

 たとえば厦門南洋航路だが、これを多く利用するのは華僑である。「今を去る四百餘年以前より海外に居移住するもの漸次多きを加へ」、最近では1年間の「移民總和約三十餘萬人の多きを算し」ている。ことに辛亥革命を機に、その数は増し「近年�々増加の傾向」が見られる。

 送り出し港は主として厦門、汕頭、香港だが、やはり厦門、汕頭が甚だ多い。厦門で乗船するのは「北は福州より南は?州に至る海岸に接したる地方者」が多く、行く先は「馬來半島、呂宋、暹羅、安南、爪哇、スマトラ、ボルネヲ、セレベス、緬甸方面を最もとし遠く豪洲、ニユウギニヤ、南米、北米、布哇に至るもの」も少なくない。

 ところで上塚の踏査を遡ること20数年昔の明治29(1896)年3月末、汕頭からシンガポールに向かった日本人がいる。宮崎滔天だ。『宮崎滔天全集 第五巻』(平凡社 昭和52年)の巻末に附された「宮崎滔天年譜稿」の「明治二九年(一八九六)二五歳」の項に「三月二七日 汕頭經由シンガポール着、扶桑館(大和館?)に大井憲太郎を往訪」とある。じつは当時、宮崎は故郷である熊本の農民を引き連れシャム(現在のタイ)での移民・入植事業に邁進していた。

 宮崎は船中で出会った中国人出稼ぎの姿を「暹羅行」(『宮崎滔天全集 第五巻』)として残している。南洋行きの中国人労働者の当時の姿を知るうえで参考になると考えるので、些か長いとは思うが敢えて引用しておきたい。

 「(汕頭で)新嘉坡行の支那勞働者千有餘人一時に乘込み、室内甲板立錐の餘地なきに至り、各々居處を爭ふ混雜一方ならず、其處此處の喧嘩口論八釜敷さ言はん方なし。終には生等の場所迄蹈込んで蹂躙せんとするを拒がんとすれば、拳を振り目を怒らして爭ふに堪り兼て覺へず立合へば、他の同類が昆棒をオツ取つて打ちかゝらん有樣に南斗癇癪の緒切れて用意の日本刀を引出し、アワヤ可笑しき狂言に及ばんとする」のだが、船員が割って入って宮崎らの居場所をなんとか確保してくれた。ところが一難去ってまた一難である。

 「支那勞働者千有餘人」の「人息に蒸され息絶へだへに相成、新嘉坡迄六日の航路此命續くかと一同嘆息仕候」。出港前でこれである。「新嘉坡迄六日の航路」は地獄だった。《QED》


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