――「支那は日本にとりては『見知らぬ國』なり」――鶴見(33)鶴見祐輔『偶像破壊期の支那』(鐵道時報局 大正12年)

【知道中国 1940回】                       一九・八・仲四

――「支那は日本にとりては『見知らぬ國』なり」――鶴見(33)

鶴見祐輔『偶像破壊期の支那』(鐵道時報局 大正12年)

要するに新たに勃興したナショナリズムの標的は日本だけなのか。それとも、やがてイギリスやアメリカにも向かうのか。

ここで登場するのが長くベルギーに留学し、流暢なフランス語を話す青年だった。彼は上海での「或る夜激昂したる面色を以て」鶴見に語り掛けたという。

「吾々はアングロ・サクソン人の覊絆から脱却しなければならない。彼等が宗�を宣傳するといふ名で、支那に入込んで大勢の青年の頭に、囚はれたる思想を鼓吹することから吾々は遁れなければならぬ。眞實の支那の文化を起す爲に眞の我に立ち歸る爲に、吾々は斯の如き外國の影響から脱却しなければならぬ。そしてあの南支那に於ける英國の覊絆から吾々は脱却しなければならぬ」。

この青年の話を聞き、鶴見は「あの大きな支那の國に今ひたひたと迫つてゐる」産業革命は、「その特徴であるところの勞働階級の増加」という現象を招き、「その勞働階級の中に民族的自覺が起つて來るならば、その勞働運動の中に一種の政治的機運が交つて來ることも亦容易に理解せられ得るところである」と。つまり、香港・広東における同盟罷業の根柢には労働組合を背景とした民衆による「英國多年の專制に反抗」する心情があり、「是亦一種のナショナリズムの反映である」と考えた。

だから「支那の民族的自覺の勃興が直ちに排日感情の増大であると爲すところの結論は、あまりにもお芽出度い議論である」。加えて「支那の國民的自覺の目標とするところのものが、單に日本だけであるとなすのはあまりにも單純な考察である」。とどのつまり「民族を保存しやうといふところの本能が、ナショナリズムとなつて現はれて來た時にその運動の嚮ふところの目標は、或る一つの國に限るべき理由はない」。そして「その運動の目標となると、標的とならないとは、支那に對する列國將來の政策如何に依て定まることである」。

かくして鶴見は、「日本人が、深く思ひを致すべき點は此處に在る」とした。

隣国に起こった激しい反日運動に対する日本人一般の考えを直截に表現するなら、飼い犬に手を咬まれた、或いは恩を仇で返されたといったところではなかったか。であればこそ可愛さ余って憎さ百倍となったとしても何ら不思議ではない。だが鶴見の考えに則るなら、社会の変化に応じて必然的に起こった「支那の國民的自覺」がナショナリズムとなって外に向かい、それまで身勝手な振る舞いを繰り返していた列強を標的とした。運動の目標は日本だけではない、ということになる。

ここで考える。

我が国は――現代の用語に従うなら「反中」「嫌中」から「親中」「媚中」までが、日中関係(問題)を長期に亘る歴史的関係を軸にして“特殊な2国間関係”に捉え過ぎてきた。いわば「支那の國民的自覺」が日本だけを対象にしていると思い込んでしまったことが、日本の対支政策の誤りを導いたのではなかったか。鶴見の時代から21世紀10年代末の現在に至る1世紀ほどを振り返ってみても、依然として日本は百年ほど前の“悪弊”から完全に抜け出ているわけではない。

今頃になって「子々孫々の友好」「一衣帯水」「同文同種」などという手垢の付き過ぎたスローガンを持ち出すようなトンチンカンな“旧時代の遺物”は存在し得ないと確信する。だが、かといって玄界灘を隔てた向こう側の大小3つの夜郎自大国とだけ交流を断つことは至難中の至難だ。ならば“切るに切れない腐れ縁”を自覚した上で、東南アジア諸国、ロシア、欧米などとの関係を精査・勘案しつつ日中関係を見定めるべきだろう。鶴見の口吻に従うならば、「日本人が、深く思ひを致すべき點は此處に在る」ように思える。《QED》


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