――「支那は日本にとりては『見知らぬ國』なり」――鶴見(27)鶴見祐輔『偶像破壊期の支那』(鐵道時報局 大正12年)

【知道中国 1934回】                       一九・八・初二

――「支那は日本にとりては『見知らぬ國』なり」――鶴見(27)

鶴見祐輔『偶像破壊期の支那』(鐵道時報局 大正12年)

 「一つは秦の始皇帝が行つたやうに、儒者を穴にして諸子百家の説を絶つこと」。ゴチャゴチャと屁理屈を垂れ続ける知識人の口を封じてしまえ、である。この始皇帝方式に倣った毛沢東は、自分に楯突く知識人を「臭老九(9番目の鼻つまみ者)」と言って容赦なく抹殺した。あれほどまでに評価する魯迅に関しても、建国後に側近が「魯迅が現存していたなら」と訊ねると、「あんなに口うるさいヤツが生きていたら、今頃は監獄か死だ」と嘯いたとの逸話が残されている。自らに靡くゴマすり知識人を「筆杆子(ペン)」として利用した。彼らは「百戦百勝」の毛沢東思想の偉大さを宣伝するための道具にすぎない。文革に直面し、従来の全作品を燃やすべきだと“懺悔”した典型的日和見文人の郭沫若、政治の風向き応じ変幻自在の“理論”を垂れ流し続けた哲学者の馮友蘭などは、その象徴である。

 残る1つは科挙制度であって、「儒生を政府の味方と爲して國を治める方法である」。儒生の現代版が14億余の人口のうちの9000万人前後を占める共産党員だろう。彼らもまた現代版科挙試験でもある厳しいペーパーテストも課せられる。そこで受験対策用の参考書や問題集が出版され、一般書店で入手可能となる。やはり共産党は“歴史と伝統”に忠実に従う革命的に頑冥固陋な権力組織だったのだ。

 さて、「その二つながら行はれざる時に於ては、春秋戰國の如き、或は宋末の如く天下が紛亂するのである」。そういわれれば20世紀初頭に科挙試験を廃止してから共産党政権成立までの間、たしかに「天下が紛亂」し続けた。

 じつは「儒生が、或いは武力階級である遊民社會を利用し、又は財力階級である實業社會を利用して支那の中心勢力を占めるやうになる」。要するに王朝興亡の中国史は、武力と財力を押さえた儒生によって演じられてきたことになる。

 清朝盛時、康熙帝・乾隆帝の「名君上に在つて巧みに儒生を利用し」て、彼らと遊民社会や実業社会との関係を断った。ところが20世紀初頭になるや「忽ちにして科擧の制度を廢止し、満洲人を以て政府の要路を充たし、儒生をしてその才を用ゐる處なきに至らしめ」てしまった。そこで不満を爆発させた漢人の儒生が、遂には「武力大團體たる兵卒と聯合して終に滿洲朝廷を倒したのである」。

 清朝を打倒して勢いに乗る儒生が「支那の遊民社會を代表するところの袁世凱」との権力闘争の果てに、「支那の政權の中心に盤居するようになつた」。そこで「現れたのが近代の國會制度」だった。ところが中華民国という共和政体が産み出した国会議員という新時代の儒生は、清朝末期の官僚より劣悪であるうえに「財政的手腕を缺き、然も何等の�操」がなかったというのだから、やはり始末に悪いこと甚だしい。

かくて「支那の代議政體に對する國民的失望とな」り、「儒生の失脚は一轉して遊民社會の擡頭と爲り」、儒生と手を切った実業社会は遊民社会の代表たる軍人との妥協に奔った。実業社会と手を結んだ軍人は「私兵を養つて各地に威勢を張り、終に支那の紊亂収拾するの餘地なき現状を将來したのである」。

 いわば共和政体の基礎である「代議制度の失敗ということが、(中華民国建国以来の)過去十年間の支那の共和制度の苦き經驗である」。

 ――以上が混乱極まりない隣国に対する鶴見の見立てだが、じつは「代議制度の失敗といふ事に就き、鋭い批評の眼を向けた一人の老人が北京にゐた」。その名は辜鴻銘。

 5月の半ば、鶴見は「北京の北方に在る彼のさゝやかな家をおとづれた」。「英、佛、獨語に暢達しながらも」、身形も立ち居振る舞いも家具調度も家の風格も古色蒼然としていた。「その周圍の總ての光景に不調和な完全な英語を以て、彼は語りだした」という。《QED》


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